(前回の内容)
「陰謀」(君主を陥れ、政権を転覆させること)を成功させるには、もしくは防ぐにはどうすればいいのでしょうか。マキァヴェッリは、チェーザレ・ボルジア(1475~1507年、マキァヴェッリより6歳年下の軍人)が「マジョーネの乱」をどう処理したのかを目の当たりにしたことで、その術を学びます。
マジョーネの乱とは、チェーザレがロマーニャ地方を攻めた時に、子飼いの傭兵隊長たちの組織「マジョーネ連合」によって起こされた反乱のことです。
当時、チェーザレから「自分たちと傭兵契約を結べ」と迫られていたフィレンツェ政府は、マジョーネの乱の様子を探るために、マキァヴェッリを使節として送り込みました。
マキァヴェッリが目にしたのは、マジョーネ連合との戦いに備えるかのように、チェーザレが多くの傭兵を雇い入れていく様子でした。
マジョーネ連合とチェーザレの和解交渉は、遅々とはしていましたが確実に進行していきました。
マジョーネ連合は、チェーザレが大軍を集めていることは承知しています。それがネックになったのでしょう。チェーザレは突如集めていた軍隊を解雇します。主力のフランス軍をはじめとした多くの軍隊がチェーザレの元を離れたことで、マジョーネ連合は壊滅させられる恐怖から解放されたのでした。
そしてとうとう和解交渉がまとまります。マキァヴェッリとしては面白くありません。せめてどっちかがつぶされてほしかったのです。しかし、それでもチェーザレはマキァヴェッリに「フィレンツェの悪いようにはしない」と繰り返します。
和解した両者は、話し合いの末、シニガッリアという小国を攻めることを決定。先鋒をマジョーネ連合が務めることになりました。チェーザレも本隊としてシニガッリアに向かって軍を進めます。
その途中、チェゼーナという町にやって来たのが1502年12月25日。そこで1泊した翌朝、マキァヴェッリは信じられないものを見ました。
チェーザレ配下の地方長官、レミルロ・デ・オルコが惨殺され、街に転がされていたのです。チェーザレの仕業だというのは分かっていましたが、なぜオルコが殺されたのか、死体を見た直後のマキァヴェッリには、まったく読めませんでした。
レミルロ・デ・オルコの虐殺は、「君主論」では、厳しい地方長官を殺すことで住民の不満を解消すると同時に君主の強さを誇示するためだと書かれています。しかし後世の研究によれば、これはどうも「君主論」に書いてあったような理由ではなく、マジョーネ連合の政敵であったオルコを殺すことで、和解協定調印後もチェーザレを疑っていた連合の疑念を消し去るためであったようです。