引き続き「放射能雲が通った街」福島県南相馬市からの報告を続ける。

 同市の3分の2は20キロ立入禁止ライン(警戒区域)の外側、つまりふつうに市民が生活を続けているエリアだ。3.11以前は、ざっと計算して6万人前後の住民がいた。20キロラインと30キロラインの内側、ドーナツのようなエリアは「屋内退避」「避難準備」など災害対策基本法由来の難解な法律用語で呼ばれるエリア指定も2011年9月で解除され、政府の建前では「通常の生活」に戻ったことになっている。

 しかし、依然として市内は山側を中心に面的な高線量地帯が広がっている。小学校ですらまだ除染の格闘が続いている。しかし、現実には山林や河川の完全な除染はほとんど不可能である。若い親たちは、子供の健康を心配して市外、場合によっては県外に避難したまま帰って来ない。2011年10月の時点で、小学生の約6割、中学生の半分が街から消えてしまった。

 福島第一原発事故は、今もコミュニティや家族を引き裂いている。南相馬で私が見たのは、その生々しい様子だ。

客のいないショッピングセンターで会った石谷さん

 「この街でお子さんを持つ親御さんの気持ちを聞きたいのです」

 会う人ごとに、そんな依頼をした。そして「そういえば、こんな人がいます」という人を紹介してもらい、会いに行く。そんな作業を繰り返している。石谷貴弘さん(41)にも、そうやって出会った。

 待ち合わせたのは「ジャスモール」という大きなショッピングセンターだった。中はがらんとしていた。夕方なのに、客がいない。店があちこち閉じている。子供たちの避難先で、母親も一緒に暮らしていることが多い。母親たちがいなくなると、モールの客層そのものがすっぽりといなくなった。さらにパート従業員が確保できない。店を開けることができないのだ。そういえば、モール自体が午後8時閉店。営業時間短縮だ。

 フードコートは電気が消えていた。1店だけ営業していたミスタードーナツのテーブルで向かい合った。客は私たち2人だけだった。石谷さんは黒いナイロンのジャージで座った。

 「ヨメさんに『これから先、どうしたらいいの?』とよく聞かれます。もうすぐ避難して1年になっちゃいます。向こうにはヨメの友人が1人もいないんです」

 トラックの運転手さんである。がっしりした体をゆすってガハハと笑う。いたずらっ子のような笑顔がかわいい。しかし顔にどこか疲れと不安が見える。