前回のコラム(「リーダーは恨まれない鬼になれ」)で、マキァヴェッリは「君主論」において、君主は鬼であるべきだとしていたことを述べました。
しかし、その後に書かれた「ディスコルシ」では、言うことが変わってきます。今回はディスコルシの内容を見てみましょう。
ディスコルシでマキァヴェッリは、マンリウス・トゥルクァトゥスとワレリウス・コルウィヌスという2人の名将を挙げて説明します。2人とも同時代の人で、どちらも素晴らしい仕事をしてきた人物です。
ただし、前回、登場したハンニバル(カルタゴの将軍)とスキピオ(ローマの将軍)同様に、2人は対照的な性格でした。
<ワレリウスの方法は、君主の場合には有効だが、市民が用いると有害だということである。>
<逆に、マンリウスの方法を用いることは、君主にとって有害である。>
「ディスコルシ」(永井三明訳、筑摩書房)
さて、マキァヴェッリはどのような結論を出したのでしょうか?
鬼でいることは君主にとって有害?
マンリウスは、ハンニバル同様、兵士に厳しく接した人でした。自分が出した命令は必ず守られるべきであり、部下がどれほど苦しもうが一切気にしなかったのです。しかし同時に彼は、軍紀や自分に下される命令も忠実、確実に守る人物でした。
そこに私情が挟まることは一切ありません。戦争時、息子が命令に反して戦った結果、勝ってしまったことがありました。ローマ政府や市民は賞賛しましたが、マンリウスは命令違反を理由に息子を殺しました。映画「ターミネーター」でアーノルド・シュワルツェネッガー演じた殺人アンドロイド「T-800」を将軍にしたような感じでしょうか。