毎年多くの経営者の方に接しているのだが、時々聖人のような方にお会いすることがある。その中の1人が工作機械メーカー、長谷川機械製作所(埼玉県さいたま市)の長谷川透社長だ。

 長谷川さんの人となりを表すエピソードがある。事件は2007年5月にJR神田駅で起こった。長谷川社長の目の前をベビーカーが電車に引きずられてゆく。中には赤ん坊がいる!

 とっさに体が動いたという。長谷川さんは乳母車に飛びつき、引きずられながら赤ん坊を乳母車から救出した。長谷川さん自身は軽傷を負ったが、赤ん坊は無事だった。「考える前に体が動いてしまいました。でも、赤ちゃんが無事でとにかくホッとしました」

 このようにわが身を忘れて他人を助けてしまうのが、長谷川社長の身上である。

 「零細企業である我が社の生きる道は、顧客の要望を細かく聞いて、最適にカスタマイズした製品をお届けし、喜んでもらうことです。ただしカスタマイズした製品は、せっかく開発しても数が出ません。だから、しょっちゅう赤字になってしまいます。でも、お客さんの満足そうな顔を見ると、そんなことは言ってられない。そして、長期的には必ず日本のためになると思っています」

 今はリーマンショック以降の不況で苦しんでいるが、政府の雇用調整金などの制度をフルに活用して、忙しい時には手が回らなかった従業員の研修、長期的な研究開発課題への取り組みを強めつつ、歯を食いしばって頑張っている。

戦前の金融恐慌時に巣鴨で創業、当初から小型機を製造

 同社の歴史は1928(昭和3)年に始まる。創業者は長谷川渉氏。渉氏の父上は海軍工廠の技師長であった。当時の機械技術者の最高峰だ。当時の渉氏の日記に、「私もいつかは必ず、父上のように優秀な機械技術者になってみせる」という記述があったそうだ。ところが渉氏が幼い頃、父は病死してしまう。

 渉氏は学校卒業後、当時一流と言われた工作機械メーカーで働いていたが、いつも心の中で「いつか自分の理想を盛り込んだ機械を設計して、世の中の役に立てたい」と思っていた。

 偶然そのチャンスが訪れたのは、27年の金融恐慌の時だった。働いていた工作機械メーカーが危機に陥った。親分肌であった渉氏は「かわいい部下が人員整理されるのは見ておけない」と、部下を連れて独立し、新会社を創業した。28年5月のことだ。

 創業地は今の東京都豊島区巣鴨である。ユニークだったのは、大型機械を目指す企業が多い中、小型の「4尺旋盤」の製造に集中したことだ。

 当時、中・大型の工作機械の製造に携わる会社が多い中、小型機のみを製造し続けた。これは、「小物部品の高精度加工には小型工作機械が欠かせない」と確信していたからだ。「大は小を兼ねられない」ということだ。