7月9日、南スーダン共和国の独立が宣言された。記念式典にはスーダンのオマル・アル・バシール大統領も出席、サルバ・キール初代南スーダン大統領と並び座ることで友好関係を演出していた。しかし、その実、油田地帯のアビエイなど帰属未定地域もあり、境界域周辺の情勢は不安定なままだ。

世界で最も若い国はまだ危険がいっぱい

アフリカへの想い

 アドルフ・ヒトラーお抱えの女流監督レニ・リーフェンシュタールが、戦後の親ナチ批判の嵐の中で低迷を余儀なくされていた1970年代、奇跡の復活を遂げた写真集の被写体となったヌバ族が住んでいたのが、スーダン中部から南部にかけての山岳地帯。

 今回独立を勝ち取り南スーダンの正規軍に「昇格」したスーダン人民解放軍(SPLA)にその地が支配されていた頃、ヌバ族との再会を期し苦難の旅を続けるレニの姿が『アフリカへの想い』(2000)にはあった。

 それから10年余り年月が経過した今、その地は南スーダンに含まれることはなく、逆にスーダン政府が警戒を強める地域となり、旅行者が訪れるどころか、現地住民の安全確保さえ危ない状況にある。

 南スーダンに無事帰属することになった地域も予断を許さない。首都ジュバからほど近く、東方一帯に拡がるマグウィ・カウンティは、SPLAが 神の抵抗軍(LRA)との間で陣取り合戦を長年続けてきた地域。

 国境をまたぎウガンダ北端からマグウィ・カウンティあたりまでは、アチョリランドと呼ばれるアチョリ族の住む地で、スーダン同様、長年内戦が続いてきたウガンダでは、北部を拠点としたLRAがスーダン政府と組み、ウガンダ政府と組んだSPLAと戦ってきた。

観光客には見えないウガンダの真の姿

 敵の敵は味方というやつである。紛争は今も続いており、アチョリ族の9割はウガンダ政府軍に護られた難民キャンプでの暮らしを余儀なくされている。

 こうした現実を伝えるメディアは欧米でも少なく、日本に至っては皆無と言っていいだろう。

 それだけに、そんな地域の難民キャンプの実態が描かれたドキュメンタリー『ウォー・ダンス/響け僕らの鼓動』(2007)のような映画が公開されていることの意義は大きい。

 多部族がひしめくウガンダでは、南部と北部では言語も全く違う。巨大都市カンパラやヴィクトリア湖のナイル河源流、西部のゴリラサンクチュアリなどには数多くの観光客が訪れるが、そんな地域とは全く別世界のウガンダが存在していることを知ることもなく通り過ぎていく。