人工授精を始めてわずか1年で、私はほとんど音を上げた。

 自分に降りかかる試練なら、いくらでも耐えてみせる自信があるが、他人を巻き込むとなると、苦しくってやりきれない。

 妻を他人呼ばわりするのも他人行儀が過ぎるけれど、他人は他人である。それが証拠に、妻がどんなに痛がろうと、私の体はちっとも痛くない。

 夫婦で人工授精に取り組みながらも、私は男性とはつくづく気楽なものだと思わずにいられなかった。

 いったん射精してしまえば、それ以降男性が負う肉体的負担はゼロである。めでたく受胎したところで、つわりの苦しみもなければ、日々膨らんでゆくお腹の重みにわずらわされることもない。流産しないかと気に病んでも、それは心配の域を出ないのであって、女性のように自分の体ごと危険に曝されるわけではないのである。

男は頭で追いすがるしかない

 女性にとって子供を産むとはどういうことだろうと、その頃私はよく考えた。自分の体から人間が生まれる。改めて考えてみると、なかなか恐ろしいことではないか。

 妊娠するきっかけは男性との性交だが、性交はあくまできっかけでしかない。十月十日(とつきとおか)をかけて、芥子粒(けしつぶ)ほどの大きさの受精卵が自らの胎内で成長し、ついには人となって、この世界に生まれ出る。

 のちにどれほど愛し合うようになったとしても、その男性と出会ったのは偶然である。いつ妊娠するのかだって、完全にコントロールできるわけではない。それに場合によっては中絶していたかもしれない。

 そうしたいくつもの偶然の重なりの中から、その子でしかない1人の人間を産んでしまうのだ。

 そんなに難しく考えなくたって子供は生まれますよ。十月十日ってさも長いように言うけれど、赤ん坊を育てる手間に比べれば、妊娠中の方がかえって楽なくらいなんだから。

 ベテランの母親たちからのそうした反論を思い浮べながら、それは実際に自分で産んだから物事を吹っ切れて考えられるので、射精以外に用のない男は頭で追いすがるしかないのだと、私は1人でグチをこぼしたりもした。

 養子をもらえばいいと思いついた時も、私はそれがいかにも頭で考えたことだと思わずにいられなかった。妻にしてみれば、生理によって人工授精の失敗を知らされるたびに悲しみはしても、私との間に生まれる子供をそんなに簡単に諦めはしないだろう。

 夫である私にできるのは、妻が頑張りたいと思ううちは黙って見守る。これ以上は無理だとなった時には、彼女の意志を尊重して潔く諦めるのと同時に、間違っても文句が出ないようにあらかじめ親戚たちに睨みを利かせておく、の2点である。

 養子の件も、人工授精をやめてから考えるので遅くはない。そう考えて、私はまた妻を促して人工授精に臨んだ。

女性を苦しめる不妊治療

 しかし、こうした「理解ある態度」が取れたのも、不妊の原因が私にあったからで、逆のケースではどうだったかとなると自信がない。

 少子化が進み、生涯未婚率が上がり続ける現在でも、妊娠・出産こそが女性の本質だと考えている人は男女共相当数に上るのではないだろうか。