徳川慶喜(Anonymous Japanese, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)
運命の日
1867年11月8日(慶応3年10月13日)正午。京都・二条城二の丸御殿の大広間に、約50人の重臣たちが集まっていた。十万石以上の在京諸藩から派遣された彼らは、いつもと違う緊張感を感じ取っていた。92畳の大広間。狩野探幽の松と鷹の障壁画が、最後の将軍権威を無言で主張していた。しかし、上段の間に慶喜の姿はない。
老中・板倉勝静が立ち上がった。
「諸侯方に、ご諮問申し上げる」
大目付の戸川忠愛が、三通の文書を配り始める。土佐藩主・山内容堂の建白書、そして慶喜の意向を記した文書。そこには「大政」を朝廷に返上する意向が記されていた。
260年余の武家政権を終わらせる文書を前に、重臣たちは沈黙した。ある者は震える手で署名し、ある者は深く息をついてから筆を取った。
署名を終えた者から退席した。最後に残されたのは、わずか6人。薩摩の小松帯刀、土佐の後藤象二郎と福岡孝弟、そして広島、宇和島、岡山の代表たち。
別室で、彼らは30歳の慶喜と対面した。後藤の額には汗が浮かんでいた。
「明日、朝廷へ上表すべし」
小松が静かに、しかし強く進言した。慶喜は無表情のまま頷いた。
翌9日、高家の大沢基寿が上表文を朝廷へ届ける。大広間に重臣たちの姿はもうなかった。歴史は、驚くほど静かに、事務的に転換していった。
実は大政奉還当日までに、薩摩・長州は密かに討幕の密勅を手にしていた。「賊臣慶喜を討伐せよ」――慶喜暗殺の勅命が、この城からわずか数キロ離れた場所で密かに発令されていたのだ(偽勅説あり)。慶喜は、自分の討伐命令が下されたその日に、自ら政権を手放した。
これは英雄的な決断だったのか。それとも、もはや選択の余地がない状況に追い込まれた末の降伏だったのか。



