日本から革新勢力をなくしたソ連崩壊

 ソビエト連邦が崩壊したとき、「これで保守と革新の対決は消滅した」という議論が多くなされた。これに対して日本共産党は、この『保革対決消滅』論は、真の革新政党である共産党の存在意義を無視しようとする攻撃であり、そんなことは断じてない、と主張した。もう二十数年前の話である。

 だがそれから数年経った時、共産党の文書から「革新」という言葉は消えていた。現在でも使われているのは、「革新自治体」というときだけである。ソ連崩壊以前は、日本社会党(現在の社民党)と共産党の間でどちらが「革新の本家」か、革新の本家争いをしていたものである。「革新3目標」とか、「政治革新」とか、日本共産党の文書には「革新」という言葉が躍っていた。いわば党の存在意義を象徴する言葉であった。

 ところが1994年、村山富市社会党委員長を首班とする「自社さ」連立政権が誕生した。保革対決どころか、社会党は保守陣営に飲み込まれてしまった。

 米ソ冷戦体制の終結は、その日本版であった保革対決の構造をも消滅させてしまった。そして、共産党の文書からも「革新」の言葉が消えてしまったのである。

保革対決は資本主義と社会主義の対決だった

 共産党は「我こそが日本の革新勢力の代表だ」と言ってきたが、実はそれは社会党に向かって言っていたのだ。だから社会党が消滅すると「革新」という言葉を振り上げる場がなくなってしまった。それはそうで、自民党に向かって言ってみても仕方がないフレーズだ。

 これは当然の帰結だったと言える。日本における保守と革新の対決とは、資本主義と社会主義の対決であった。だがソ連や東欧の社会主義陣営の崩壊は、社会主義の敗北を世界中の人々の前で鮮やかに立証した。