日本では8月になると、「平和」が熱っぽく語られる。その平和論は「戦争の絶対否定」という前提と一体になっている。
広島と長崎への原爆投下の犠牲者の追悼の日、さらには終戦記念日へと続く期間、平和の絶対視、そして戦争の絶対否定が強調されるわけだ。特に8月15日の終戦記念日が近づくと、この論議は「8月の平和論」として声高に語られる。
あえて「8月の」と記述したのは、他の季節にはこれほどの平和論はまず高まりを見せないからだ。
「8月の平和論」は、いつも内向きの悔悟(かいご)にまず彩られる。戦争の惨状への自責や自戒が主体となる。とにかく悪かったのはわが日本だというのである。「日本人が間違いや罪を犯したからこそ、戦争という災禍をもたらした」という自責が顕著である。
その自責は、時には自虐にまで走っていく。個人で言えば、全身の力を抜き、目を閉じ、ひたすら自己の内部に向かって自らを責めながら平和を祈る、というふうだと言えよう。そして、いかなる武力の行使をも否定する。
こうした反応は自然であり、貴重でもある。日本国民が戦争によって悲惨極まる被害を被ったことは言を俟(ま)たない。その悲惨を繰り返さないためには、平和を推し進めねばならない。8月の平和の祈念は、戦争犠牲者の霊への祈りとも一体となっている。戦争の悲惨と平和の恩恵をとにかく理屈抜きに訴えることは、それなりに意義はあると言えよう。
異端と言わざるを得ない日本の「平和」に対する考え方
だが、この内省に徹する平和の考え方を日本の安全保障の観点から見ると、重大な欠落が浮かび上がる。国際的に見ても異端である。
日本の「8月の平和論」は平和の内容を論ぜず、単に平和を戦争や軍事衝突のない状態としてしか見ていない。その点が重大な欠落であり、異端なのだ。
日本での大多数の平和への希求は、戦争のない状態を保持することの絶対性を叫ぶだけに終わっている。守るべき平和の内容がまったく語られない点が特徴である。