前回のコラムは、早期教育の是非を問う内容だった。と言っても、正面から論じて疑義を呈したのではなく、わが家の長男が保育園児だった時に平仮名を教えるのを控えたテンマツを書いたところ、思いのほかたくさんの人に読まれたようである。そこで気をよくして、今回は私自身が育つなかで両親から施された教育について書いてみたいと思う。
まず略歴を述べておくと、私・佐川光晴は1965(昭和40)年2月8日に、東京都新宿区の聖母病院で誕生した。父・光徳は1938(昭和13)年に青森県弘前市で生まれた。佐川勇造・睦子の次男で、弘前高校を卒業後に東京教育大学英文科に入学するに当たって東京に出てきた。母・美智子は1939(昭和14)年に東京都で生まれた。多田三郎・島代の末娘で、実践女子短期大学を卒業している。2人は交通公社(現JTB)の職場結婚で、母は長男である私の出産を機に退職した。
母方の祖父母が四谷で暮らしていたことから、新婚夫婦は新宿区上落合のアパートを借りた。私は「四谷のおじいちゃん」と「四谷のおばあちゃん」から溺愛された。ただ、父としては、あまり義父母の世話になりたくなかったのだろう。公団住宅への応募を繰り返した末に、ようやく4年後に神奈川県茅ヶ崎市の鶴が台団地に当選した。私は4歳になっており、妹が2人生まれていた。茅ヶ崎でさらに妹と弟が生まれて、われわれは5人兄弟になった。
子どもの頃に、両親からどのような教育を受けたのかは、まるで記憶にない。ただ、父が自分の両親からどんなことをされたのかは、ちょくちょく聞かされた。曰く、爪を切ってくれるのだが、深爪にされるので痛くて嫌だった。曰く、人生訓のようなことを長々と話すのがとにかく嫌だった。これらは、私の祖父・勇造が父にしたことである。禅の鈴木大拙や小説家の志賀直哉に心服していたことが、祖父の行為になにがしかの影響を与えていたのかもしれない。
一方、私の祖母・睦子も、父によい印象を残していない。父は小学生の頃、「漫画の神さま」手塚治虫に憧れて、よく漫画を描いていた。自分ではなかなかのものだと思っていたのだが、ある日睦子さんが父の描いた漫画を見て、ちっともうまくないと嘲笑ったのだという。父も、それほど憎々しげに話すわけではないのだが、やはりそうとう嫌だったのだろう。
父は、自分の両親を反面教師にして、子育てに当たったのだと思う。だから、私は父からも母からもけなされたことがない。また、誰かと比較されて、もっと頑張りなさいなどと言われたこともなかった。妹たちもそうだったと思う。親にぶたれたり、無視されたりしたことがないのは、もちろんである。
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こうした父が率いる家庭がどのような雰囲気だったかを伝えるために、以下私のエッセイを引用する。出典は、「主夫のつぶやき 第18回」(北海道新聞、2011年12月13日)である。