「サブプライム問題」が既に死語に感じられるほど、ウォール街は昨秋以降の金融危機の荒波に翻弄された。しかし、苦境の自動車ビッグ3に弱腰ブッシュ政権が問題先送りのつなぎ融資を決め、束の間の静寂の中で越年するかと思われた。その矢先、波乱の年は最後の最後に期待を裏切らない一大イベントを用意していた。500億ドル(約4兆5000億円)ものカネが消えた「ねずみ講」事件の発覚である。それで子年(ねどし)が幕を閉じたなどシャレにもならないが、被害者の人脈に目を凝らすと巨万の富を操るウォール街の「裏」の姿が浮かび上がってくる。
新規投資を募っては既存顧客の配当に充てる「自転車操業」でも、その首謀者がナスダック市場を運営するナスダック・ストック・マーケットの元会長とくれば、百戦錬磨の投資家がワナにはまるのも無理はない。
クリスマス直前、ニューヨークを今冬一番の寒波が襲った。氷点下に身を縮める早朝の駅で、マンハッタン行きの通勤電車を待つ投資会社社員とおぼしき男性2人の会話。「まだ休暇を取らないのかい」「今日も『ポンジー・スキーム』だよ」。ポンジー・スキーム(Ponzi Scheme)。「ねずみ講」を指す単語が、今やウォール街最大の流行語になった。投資先に「バーナード・マドフ投資証券」があるのか。そうなら投資額はいくらか、そのカネは戻ってくるのか。「100年に1度」の金融危機下で、新たな難題が投資家を悩ませている。
バーナード・マドフ容疑者(70)が、自らの名を冠する会社を興したのは1960年。ニューヨーク市クイーンズの海岸でライフガードのアルバイトをしてカネを貯め、地場の証券ブローカーとして起業。このユダヤ人青年実業家は、ニューヨーク証券取引所に上場していない銘柄の取り次ぎで儲けた。
マドフ容疑者の弟ピーター・マドフが加わった1970年代から、組織は変貌を遂げる。ピーターは当時まだ珍しい電子技術を駆使し、わずかな売買価格差の取引でも大量処理で利益を上げる手法を考案した。この技術がその後のハイテク証取「ナスダック市場」の基礎を築いた。
投資アドバイザーとして実力発揮する兄バーナードと、それを技術面から支える弟ピーター。兄弟の二人三脚が実を結び、投資会社は徐々に業容を拡大した。 80年代にはウォール街を抜け出し、マンハッタン中央部のビジネス街「ミッドタウン」へオフィスを移転。業界で確固たる地位と信頼を築いた。
「身内固め」「密室投資」で業容拡大
バーナードは90年にナスダック会長に就任。電子取引を証券売買に活用するため、規制緩和を目指して首都ワシントンで積極的なロビー活動を展開した。ユダヤ人脈をテコに公の場での露出が高まったが、本業の投資に関しては慎重な態度を崩さなかったという。
例えば、自らの投資会社の幹部は身内で固めた。2人の息子が大学卒業後に合流し、ピーターの娘(バーナードの姪)も加わる。従業員は総勢200人規模に達したが、実情は「家内工業」だったという。その頃には「親戚や親しい友人だけの損をしないサイドビジネス」(米紙ウォールストリート・ジャーナル)を始めており、「ねずみ講」まがいの不正行為が日常化していたとみられている。