6月29日、中国・重慶市で、中国と台湾の自由貿易協定(FTA)に相当する「経済協力枠組み協定(ECFA)」が調印された。

 1949年、蒋介石の国民党政府が国共内戦に敗れ、台湾に逃れて60年以上が経過し、かつての「不倶戴天の敵」同士がこうして貿易自由化の協定を結ぶこと自体、大変な歴史的変化であることは間違いない。

 ただし、経済的に台湾を取り込み、その先に「統一」を図ろうという中国の戦略を分かっていながら台湾がECFAを望んだとすれば、これは一種の「政治的自殺行為」であるとも言える。

80年代に中台貿易が急成長

 中台の経済的結びつきは、79年が「変化の年」であった。この年の1月1日をもって中国と米国が国交を樹立し、米国は台湾と断交した。

 ただし、米国は台湾を見捨てたわけではなかった。米国は中国に働きかけて、台湾政策をそれまでの「武力解放」から「平和統一」に切り替えさせた。また、米国議会が中心となって「台湾関係法」を国内法として成立させ、断交後も引き続き台湾の防衛に必要な武器売却を米国政府に義務づけた。

 中国も同じ1月1日、「台湾同胞に告げる書」を発出し、「平和統一」を提起すると同時に、「3通」(通航、通商、通郵)を台湾に呼びかけた。

 中国の台湾政策が「平和統一」へと変化し、その方法として「一国二制度」を認め、台湾の政治・経済体制の維持を保証したことで、中台の経済的結びつきが可能となった。

 ちょうどその頃の中国は、鄧小平が実権を掌握し、経済建設を最優先課題とする「改革開放」路線を打ち出していた。81年には深セン、珠海、汕頭、そして厦門が経済特区に指定され、優遇税制で外資を呼びこむ試みが始まった。

 この中で、前3都市が広東省に位置し、香港を中心に華僑資本の投資を期待したものであったのに対し、厦門は台湾の対岸に当たる福建省にあることから分かるように、福建省出身が多い東南アジア華僑資本のみならず、台湾資本の投資をも視野に入れていた。

 こうして79年から香港経由の中継貿易が始まった。貿易は、台湾の蒋経国政権の黙認の下、初年度の7780万ドルから急成長し、90年には40億4360万ドルに達した。

 87年に台湾が49年以来の戒厳令を解除するや、台湾の大陸投資が始まり、88年には4億2000万ドル(契約ベース)だったものが91年には13億8800万ドル(同)に急伸した。89年6月、中国では天安門事件が起こり、国際的経済制裁の中で孤立したが、台湾は中国への経済制裁には加わらなかった。