アラブの春から3年。1月25日、エジプト、カイロのタハリール広場は熱気に包まれていた。集まった人々が口にするのは軍への期待の言葉。一方、街中では、ムスリム同胞団支持者などのデモ隊が治安部隊と衝突、治安機関への襲撃や爆発もあり犠牲者も出ている。
中央アフリカに女性暫定大統領が誕生
少し南方に目を向けると、南スーダンでは、副大統領支持派によるクーデター未遂から激化する民族紛争で停戦協定が結ばれ、その西隣、宗教紛争の一面を持ちジェノサイドの瀬戸際にあるとまで言われる中央アフリカ共和国には女性暫定大統領が新たに誕生。
しかし、どちらの先行きも極めて不透明。コンゴ民主共和国の混乱も続いており、アフリカ北東部は、血で血を洗う混乱と政争で、2014年が始まった。
こうした混乱の原因を考えるには、1952年の「革命」までエジプトの(名目上の)支配者だったムハンマド・アリー朝成立の頃までさかのぼる必要がありそうだ。
18世紀末、ナポレオン・ボナパルトはエジプトへと遠征した。時の支配者オスマントルコは、英国との連合軍で挑み勝利。戦いで功績のあったアルバニア人ムハンマド・アリーは、混乱の中、エジプト総督の地位を得ると、1831年からの2度にわたるエジプト・トルコ戦争では世襲統治権まで獲得、エジプトは半ば独立を達成した。
しかし、欧州列強は認めなかった。さらに、フランスとスエズ運河を完成させたエジプトが、1875年、欧州各国への負債に苦しみ、運河会社株の持ち分を英国に売却してしまったことから、インド経営と極東への英国の重要拠点にもしてしまったのである。
こうしたなか、アラブ人将校アフマド・ウラービーが、トルコ系による軍隊支配、欧州列強による経済支配、汚職と官僚主義が蔓延する世で、議会開設を求める運動を展開、民族主義的政権が発足すると自ら陸軍大臣となった。
しかし、まもなくアレクサンドリアで起きた反欧州暴動で多くの犠牲者が出たことから、英国が攻撃開始。エジプト軍は敗れ、ウラービーがセイロンに流されたことで、この「ウラービー革命」は終わった。
同じ頃、スーダンでは信仰と国土の解放を伝道、諸部族をまとめ上げたムハンマド・アフマドをマフディ(約束された指導者)とした反乱が勃発。
1820年頃、既にムハンマド・アリー朝に北部は征服され、支配は南へ向かっていたものの、エジプトの実権を握る英国は財政的理由もあって、スーダンから引き上げるべく英国軍人チャールズ・ゴードンを送り込んだ。