今、フランクフルトのシュテーデル美術館で、デューラー展が開かれている。同美術館が所有している作品に、世界中に散らばっている作品が加わり、合わせて190点が揃った大々的な展覧会だ。

 美術館はとても混んでいた。アルブレヒト・デューラー。日本では、イタリアの巨匠たちの陰に隠れてしまう傾向があるが、紛れもなくドイツ・ルネサンスの第一人者で、ドイツ美術史の最高峰に君臨する。人気は今も高い。

金細工の修業で10代から稀有な才能を発揮

13歳の自画像(ウィキペディアより)

 デューラーは、1471年、ニュルンベルクに生まれた。1470年から1530年にかけて、ニュルンベルクは商業都市として、最盛期に達している。

 神聖ローマ帝国が支配していた世界のなかでは、プラハ、ケルンと並ぶ裕福な都市で、文化が栄え、銅版彫刻、印刷、時計制作など、さまざまな手工業が、その完成度を全ヨーロッパに誇示していた。その華麗な繁栄の中で、デューラーは金細工師の息子として生まれた。

 デューラーの父親はハンガリー人で、ニュルンベルクに移住して独自の工房を開いた。母親バーバラの生家もニュルンベルクの金細工師であったので、デューラーは、両親の双方から優秀な工芸職人の血を引いていたと言える。当時、金細工は、数ある工芸の中でも、栄えある職種の1つだった。

 母親バーバラは18人の子供を産み、そのうちのたった3人が生き延びた。デューラーが何人目の子供であったかは分からない。度重なる出産の無理がたたり、母親は常に病気がちだったという。デューラーの筆による母親の肖像が2点残っている。

 1点は、40歳ごろの母親が、手に信仰の象徴である珊瑚色の数珠を握り、裕福な市民階級の身なりで上品に描かれている。もう1点は死の2カ月前のもので、死相がはっきりと表れた壮絶な絵だ。

 13歳になったデューラーは父親の下に弟子入りし、金細工の修業の1つであるスケッチの分野で、稀有な才能を表すことになる。同じく13歳のときに、一切修正の利かない銀尖筆で描いたという最初の自画像が残っているが、子供の筆とは信じられない出来栄えだ。

 16歳のとき、一通りの金細工の修業を終えたデューラーは、父親に頼み込んで、画家の親方の下で新たな修業を始める。当時の画家の地位が芸術家であったかというと、そうではない。金細工と同じく、それは絵を描く職人であった。