日曜日に街中心の広場に行くと、「NATO(北大西洋条約機構)はリビアへの空爆を止めよ」「EU(欧州連合)は難民法を改正せよ」という大きい横断幕を掲げたグループが、市民にビラやパンフレットを渡して中東とアフリカの状況を訴えたりなどの活動を行っていた。

 幕の近くに立っていた1人に「どこから来たのか」と聞くと、「もとはナイジェリア出身だが、リビアで仕事をしていた。リビアの状況が悪くなったので、欧州に来た」と言う。

 その場にスウェーデン語ができる人もいたので、随時通訳をしてもらいながら話すことができた。

ナイジェリアからリビア、ドイツ、スウェーデンへ流れて

 この男性は、今年の初めまでドイツ・ベルリン市内の収容施設にいたが、処遇があまりにもひどいので伝手を求めてスウェーデンに来たと言う。ナイジェリアから仕事を求めてリビアへ移り、10年ほど働いていたが、その後NATOが空爆を開始して戦争が始まったため、逃避を余儀なくされたと話した。

 「リビア北部のミスラータに住んでいて、主に建設現場で働いていた。賃金はかなりよく、私はそこで結婚して、よい生活をしていた。しかし2011年にフランスとアメリカが爆撃を開始してから、すべてが変わってしまった。私にとっても、私が知っていたすべての人にとっても、悲惨な経験だった」

 「NATOは爆弾で一般市民や子供たちを殺した。彼らの手は無実の市民の血で汚れている。私の友人や同僚も爆弾の犠牲になった。その後市内に反体制派が入ってきて、見つかった者は首を切り落とされた。私は自身で彼らの死を目撃した」

 「ミスラータが非常に危険になったため、私は妻とトリポリに逃げた。家と財産のほとんどを置いたままだった。が、その後反体制派がトリポリにも入ってきた。リビア兵士は、国を去ることが唯一の安全な道だろうと言って、私たちを港に送ってくれた」

 「私は、昨年6月初めにボートで出発し、8日間かかって地中海を渡った。ボートに乗る時に妻と離れ離れになってしまい、彼女がどこでどうしているのか、今も分からない。船に乗っていたのは600~700人くらいだった。船上では食べ物も水もなかった。乗船する時に、すべての持ち物を置いていかなければならなかったからだ」

 「7日目にボートが転覆し、乗っていた何百人もが溺れた。私は運良く救助され、他の生存者とともにランペドゥーサに送られた。その後、生存者はイタリア本土のあちこちの収容所に移された。私はミラノの近くの大きなキャンプに送られ、そこに1年近く滞在した」

 「我々は何度も難民の地位の認定を求めたが、イタリア当局は無視したままだった。住居も悲惨な状態だった。今年初めにイタリア当局が、北アフリカの緊急事態は収束したと宣言し、イタリア全土の難民キャンプを解体した。真冬に、一夜にして約3万人の難民が通りに放り出されたのだ」

欲しいのは慈善ではなく仕事

 「私たちは野外で、何の保護もなしで寝なければならなかった。多くの人は他国に向けて出発しようとしたが、結局、多くがイタリアに送り返された。我々はイタリアの海岸に上陸したため、欧州の法律によるとイタリアに難民保護の責任があるからだ」

  「今年に入ってからドイツへ行ったが、そこでも状況は非常に悪く、公園で寝なければならなかった。ドイツでも我々は当局に無視され放置されたままだった。仕事はなく、労働許可も得られなかった。我々は慈善は欲しくない、社会のために建設的な何かをする機会が欲しい。私たちは、疲れていて空腹だ。我々が欲しいのは仕事だ」

 今年は、これまでのところ、中東とアフリカ地域から2万5000人がイタリアの海岸に上陸した。2012年全体の3倍以上だ*1

*1http://www.theindependentbd.com/index.php?option=com_content&view=article&id=188467:300-feared-dead-in-italy-migrant-boat-disaster&catid=187:online-edition&Itemid=223, http://english.ahram.org.eg/NewsContent/2/9/83148/World/International/Over--dead-in-migrant-boat-disaster-off-the-Italia.aspx