それは、あまりにも美しい風景だった。コンクリートの巨大なアーチは、静かに、平安に、周りを威圧していた。その無機的な人造物が、なぜか自然に溶け込み、雄大な山の景色の一部となっている。
小学校のとき、国語の教科書に黒四ダムの話が載っていた。内容を思い出そうとしても、定かな記憶が戻らない。ただ1つ、ものすごい難工事であったということだけが、そのときから今まで、消えることなく私の頭に焼き付いている(黒四ダムは、完成後、黒部ダムが正式名称となった)。
電力不足解消のため想像を絶する難工事に挑む
1956年、黒部ダムの建設が始まった。すでに54年に神武景気が到来しており、56年の経済白書には「もはや戦後ではない」と記された。国民の間にテレビや洗濯機が普及し始め、この好景気がその後の高度経済成長につながっていくのだが、当時、それを妨げるネックが1つあった。電力不足である。
電力の安定供給は、国の発展の要だ。1952年、ようやく主権を回復した日本は、すでに華々しい復興の道を歩んでいた。当然のことながら、電気の需要はどんどん伸びる。産業の発達のために、家庭の電化のために、つまり、国が豊かになるために、電力は不可欠だった。ところが、その電力が圧倒的に不足していた。
1955年、56年と、すでに丸山ダム、佐久間ダムが完成していた。次は黒四ダム、関西電力の民間プロジェクトだ。
黒部の下流地域には、戦前にすでに3つの小規模のダムが造られていた。その上流に建設される大規模なダム、黒四は、文字通り、黒部の第4のダムとなるはずだった。
黒部の源流は、飛騨山脈の鷲羽岳、2924メートルという高所にある。
川は、最初のうちこそ山奥の台地をゆるやかに流れているが、「やがて恐ろしい流れとなって、70キロほどを狂気のように北に駆け下り、ようやく富山県愛本のあたりで平地に出て、肥沃な黒部平野を造ってから、富山湾の東端で日本海に注ぐ」。「北アルプスの雲の上から、わずか100キロ足らずで海に注ぐ川だけに、上流ではその勾配は極めて激しく」「歯をむいて、鋭い渓谷の岩角を蹴って、海へと走り下っている」(『黒部の太陽』木本正次著)」のである。
しかも、その周りには、槍ヶ岳、南岳、奥穂高岳など、「日本の屋根」と呼ばれる3000メートル級の山々が連なっている。つまり、黒部に人が入らなかったのは偶然ではない。これら周りに立ちはだかる天険が、黒部へ人を寄せ付けなかったのである。富山側から黒部には、通じる道さえなかった。黒部はまさに秘境であったのだ。
その秘境に巨大なダムを造るというのは、無謀なことだった。そもそも、この出口のないすり鉢の底のようなところへ、どうやって機材を運べばよいのか。そのためには、道だけでなく、北アルプスを貫通するトンネルを造らなければいけなかった。