7月11日投開票の参院選挙のマニフェスト(選挙公約)を発表する記者会見で、首相の菅直人が突然消費税増税を口にしたとき、思い出したのはちょうど30年前に行われた史上初の衆参同日選挙である。
1980年6月22日のこの選挙は、選挙戦の真っ只中に首相だった大平正芳が急逝したこともあって、弔い合戦の挙党体制で戦った自民党が衆参ともに圧勝した。
実は、その前年の1979年9月に実施された衆院選挙では、自民が過半数割れに追い込まれる大敗を喫している。その理由の1つが、大平がぶち上げた「一般消費税」構想だ。(文中敬称略)
子孫に赤字国債のツケを回してはならない
1973年の第1次石油ショックで高度成長に終わりを告げることになった日本経済は、その翌年、戦後初めてのマイナス成長に突入する。大幅な歳入欠陥となり、財政も赤字となった。
このため政府は1975年12月には補正予算を編成、本来は財政法で禁じている赤字国債を2兆3000億円も発行した。これが、その後の本格的な国債依存財政の始まりとなった。
当時の三木武夫内閣で蔵相を務めたのが大平である。財政破綻につながりかねない赤字国債の大量発行への道を開いたことに、大平は強い責任を感じていたという。「子孫に赤字国債のツケを回すようなことがあってはならない」
だからこそ、大平は首相に就任するや、戦後のシャウプ勧告以来直接税中心だった日本の税体系を、間接税主体に改めようと考えた。その手段が「一般消費税」だった。
言葉を大切にし、「戦後政界屈指の知性派」と言われた大平である。愚直にも1979年の総選挙で、野党のみならず党内の大反対に遭いながら「一般消費税導入」を掲げて戦った。
その結果が過半数割れの大敗→自民党史上最も深刻な対立と言われた40日抗争→社会党が提出した内閣不信任案が、自民党反主流派の採決欠席により可決成立→衆院解散による衆参ダブル選挙。そして思ってもみなかった選挙運動中の急逝である。
命懸けの政治家が官僚組織を動かした
結局、大平が打ち出した一般消費税は実現に至らず、その後、中曽根康弘内閣の売上税構想も頓挫。竹下登内閣が1989年4月に「消費税」を導入するまで、10年近い月日を待たなければならなかった。
しかし、大平が「一般消費税」に本当の意味で政治生命を懸けただけに、当時の大蔵(現・財務)官僚たちも真剣だった。