先日、久しぶりに京劇を観た。中国国家京劇院の名優たちが演ずる京劇三国志「趙雲と関羽」で、三国志の「長坂の戦い」に絡む一場面を楽しんだ。
この公演は、日中平和友好条約締結35周年記念事業と銘打ったものだったが、このところの日中関係の悪化は文化の分野にまで及んでいるので、実現までには、関係者の大変な苦労と努力があったのだと思う。
公演の会場となった東京芸術劇場で、招聘したNPO法人京劇中心の津田忠彦代表と話を交わす機会があった。「国家京劇院の宋官林院長と主演の趙永偉さんの熱意のおかげです」と語っていた。
津田さんが長年培ってきた京劇人脈が、こういう時期にこそと、奮起したのだろう。三国志に登場する人物たちに流れる「義」を彷彿させるドラマだ。
歌舞伎と京劇の相違点
京劇の日本公演をプロデュースする津田さんを取材したのは、20年近く前ではないだろうか。自らも劇団を率いていた津田さんが中国で京劇に出合い、その面白さを日本に伝えようと、中国各地の京劇を日本に招く「呼び屋」として奔走している話を伺った。「そのために、いくつも会社をつぶした」と言いながらも、とても楽しそうな表情をしていた。
それから津田さんに導かれるように、京劇を観るようになった。そのたびに考えるのは、歌舞伎との相違である。京劇で「瞼譜(れんぶ)」と呼ぶ隈取(くまどり)は歌舞伎のものとよく似ているし、見得を切るところも同じだ。
京劇の歴史は、18世紀後半に清朝の首都であった北京で花開いたというから、17世紀初頭の出雲阿国(いずものおくに)を起源とする歌舞伎よりも新しい。しかし、京劇は古くからいろいろな地方で演じられていたものを当代風にアレンジしたものだという。その源流を遡れば、ずいぶんと古いものだろう。
歌舞伎の隈取は初代市川團十郎が取り入れたという。その歴史は元禄時代(1688~1704年)にさかのぼり、京劇よりも古い。しかし、瞼譜の歴史は、漢代・唐代のお面(日本に伝来して伎楽面となる)や宋代の塗り面にさかのぼり、京劇のもとになる中国各地の歌劇の中で瞼譜が登場するのは明代(1368~1644年)になると言われる。團十郎が京劇以前の地方劇から隈取を取り入れたという説もうなずける。
京劇の瞼譜や見得は、観客と同じ共同幻想空間に成立するシンボリズムだ。手にした鞭だけで、馬に乗ったり駆けたりを表現するのも同じだろう。日本人も「見立て」は大好きで、歌舞伎も見立てがなければ成立しない。