何年か前から、いわゆる「キラキラネーム」が世間の話題に上ることが多くなりました。
日本にはない名前を子供に付けたいと、名前に当て字を使うことは過去にもありました。筆者の知る、最も古い例は森鴎外の子供の名前です。鴎外は自分の本名である林太郎がドイツ留学時になかなか覚えてもらえなかったため、子供には外国人に覚えやすい語感の名前を付け、漢字を当てたと言われています。
損失を最小限に食い止められる道を選ぶ
<運命が支配するところでは、一寸先は闇なのですから、せめて最も手厳しくない運命に従うのが道理なのです。>
(「書簡」マキァヴェッリ全集第6巻、松本典昭、和栗珠里訳、筑摩書房)
1514年、マキァヴェッリはフィレンツェの教皇庁大使になっている友人のフランチェスコ・ヴェットーリと何度も手紙の交換をしていました。
教皇がヴェットーリに相談したのでしょうか。ある日、マキァヴェッリはヴェットーリから教皇庁の政策に対する助言を求める手紙をもらいます。政変によってフィレンツェ政庁をクビになって2年。サンタンドレアの別荘に引きこもって「君主論」や「ディスコルシ」を書いていた頃です。
自分の能力が求められていると喜んだマキァヴェッリは、長い手紙を書いて懇切丁寧に教皇庁はどうすべきかを説明します。当時の教皇庁は、ヨーロッパ世界の3大勢力のうち、どこに味方すればいいのか、それとも中立を選べばいいのか分からなかったのです。3大勢力とは、以下の3つの勢力です。
(1)フランス、イングランド
(2)ヴェネツィア
(3)スイス、スペイン、神聖ローマ帝国
ミラノを取ったフランスにヴェネツィアが挑もうと画策し、スベインはフランスがヴェネツィアに気を取られている隙を見てフランスを叩こうとしている状況でした。そしてフランスがヴェネツィアを叩く隙にスベインが悪さしようとしたらイングランドがスペインを叩きに来ることが予想されるなど、国際関係は複雑な状況でした。そんな中、教皇庁にとって最もよい選択は、マキァヴェッリ曰く「フランスにつけ」でした。
その理由は、これまでの連載で紹介してきたマキァヴェッリの意思決定のノウハウが手紙のあっちこっちに顔を出していて紹介しきれないほどなのですが、一言で言えば「最悪の事態を想定し、どうすれば損失を最小限に食い止められるか」を意思決定の基準にせよ、ということです。