「田端義夫さん死去 94歳」

 4月26日の新聞各紙は、歌謡界の大御所、田端義夫さんの死を大きく報じた。バタヤンという愛称があったこと、ギターを小脇に抱えて、「オース!」とステージで聴衆に向かって呼びかけていたパフォーマンス。そして、「かえり船」「大利根月夜」「島育ち」など、戦争を挟んでの長きにわたって、大衆の心をつかむ歌を世に送り出してきたことを振り返っていた。

 私は彼の歌をよく聴いていた世代でもないし、演歌ファンでもない。しかし、かなり高齢な田端さんのことは頭のどこかにいつもあっただけに、訃報に接し深く感じ入るところがあった。それは、彼の代表的なヒット曲の1つ「十九の春」との関わりがあったからだ。

「十九の春」ジャケット

 「♪私があなたにほれたのは ちょうど十九の春でした」

 と、始まるこの曲のヒットで、田端さんは1975(昭和50)年、レコード大賞特別賞を受賞する。長い歌手人生なら浮き沈みがあって当然だが、これで彼は2度目の再起を果たしたとも言われた。

 その意味で特別な歌であり、また他のヒット曲と趣を異にする点でも特別だった。というのは、この歌が作詞・作曲家と組んだ作品ではなく、作者不詳の歌だったことである。それを“発掘して”世に広めたのが田端さんだった。

貧しさと歌への情熱から生み出した“田端流”

 「十九の春」だけではない。歌とギターが好きでだれに習ったわけでもなく歌い続けることで、自分なりの“田端流発声法”を早くに確立した彼には、気に入ったメロディーを見つけてはアレンジし、自分のものにしていく独創性があった。

 このことに詳しく立ち入る前に、田端さんの歌手人生を振り返ってみる。田端さんは三重県松阪市に10人の兄弟、姉妹のなかで9番目の五男として生まれた。

 「父に早く死なれ、わたしの家はずっと貧乏でした。五人の姉さんたちはみんな芸者に行き、おっ母さんは借金取りに追われ続けていた。わたしも小学校にまじめに通うこともなく早くから奉公に出た」と、自伝『バタヤンの人生航路』(日本放送出版協会、1991年)にある。また、幼い頃患った目の疾患を治療できず、16歳の頃には右目の視力をほぼ失ってしまう。

 丁稚奉公などをして生計を立てる一方で歌の世界にのめり込み、1938(昭和13)年にアマチュアコンテストで優勝、プロテストに合格し翌年「島の船唄」でデビュー、これが大ヒットとなる。以来、歌だけでなく映画でも活躍。戦時中は軍の要請で中国大陸へ出かけ慰問公演を行う。

 終戦まもない1946(昭和21)年には、故郷を思う人の心をとらえた「かえり船」が大ヒット、「ズンドコ節」がこれにつづいた。歌に映画にと活躍するが、やがてキャバレー回りを数多くこなすほど表舞台から遠ざかった。

 再び脚光を浴びたのは、1962(昭和37)年に発表した奄美大島を舞台にしたエキゾチックな歌謡曲「島育ち」が大ヒットしてのことだった。その後しばらく大ヒットはなく13年後の1975(昭和50)年に「十九の春」で“奇跡の復活”を果たす。このとき56歳。さらに歌い続け、最後の公演は2008年だった。