何事も「改革」を言うときは「攻撃は最大の防御」が変に有効で、それがあとあとつまらない問題の根を作ってしまう。そういう「バカバカしいことはもうやめましょうよ」というお話をしたいと思うのです。
テレビをつけても町を歩いても、選挙の投票前で公約だなんだと盛んにPRを見るわけですが、本来なら横綱相撲で責任を取るのが議員であり首長というものでしょう。それが、何か多数が喜びそうなターゲットを見つけては攻撃に終始するような「攻撃未満」ばかりが目につきます。
それがしかも、日替わりで撤廃されたり新しいのが出てきたり。もう、何と言うか、世も末としか言いようがない。もう少し社会全体が大人にならなければ、いつまでたっても「日本人12歳説」という、先進国指導層に完全に定着している汚名を返上することはできないでしょう。
残念ながら、日本全体がすぐに「成長」するのは難しいでしょう。でも、仮に社会全体は時間がかかっても、目指すべきビジョンの先駆例として、「大学くらいはまともに動いてもいいんじゃないかな」と、個人的には思います。
民主主義と全体主義の違いは何かと言うと、1つのポイントは「少数意見」の尊重にあります。少数を圧殺するのは「全体主義」、今の日本は「民主主義」であるはずですから、大学もまた少数意見を尊重するのが、本来のあり方であるはずです。
そこで、大学というものに良心を持って関わる一個人として、思うことを名と顔をさらして記すわけですが、東京大学をはじめ国立大学法人に見られる「苦し紛れ改革」と映るものの大半を、一度根本的に考え直してもよいのではないかと思うのです。
フィージビリティという鍵
よく、大学の中で聞く会議のフレーズで、
「いいじゃないか、やってみたら」
という、半ば決まり文句のようなものがあります。これは、何かと必然性とか成功可能性とか、あれやこれやを言って行き詰まったりしやすい議論の中で、開明派をもって自認するような人が、
「いや、いいじゃないですか、やってみても。ダメだダメだと言っていても、物事は大きく伸びませんから。ひとつここは、大きく構えて、やってみたらいい」
というニュアンスで話されるものです。
例えばこれと同じことを、大学院での学位指導で考えてみましょう。例えば、大学院レベルでの研究など実際にはしたことがない学部学生が「研究計画書」として何か持ってきたとします。
それがまともな形になる見込みがある、というときもまれにありますが、大半は使い物にならない。少なくとも2年で修士が取れる公算は限りなくゼロに近い。
こういうとき、「いいじゃないか、やってみたら」という教授の態度は誠実か、と考えてみましょう。
果たして2年後、学生は何も形にできなかった。まあ、はっきり言って非常に頻繁にある現象です。そういうとき「指導教官」であるはずの人間が、それに責任を感じるかと言うと、日本の場合、一部の専門を除いて、ほとんど何もないように見受けるのです。
「あ、そぅ。できなかったんだ。そりゃしょうがなないね、残念」
こういう「放任」を、私は、大学院の指導教授のあり方として、不誠実なものと考えます。