今週来週とは、規模は小さいですが内容的にはこの秋の目玉の1つ、詩人の辻井喬さんなどと国際コラボレーションで進めているオペラの部分初演がありまして、普段からの時間貧乏がさらに昂進しているのですが、この仕事をしながらつねづね思うのは「著作権」など知的財産権の問題なのです。といっても、大したことではないのですが・・・。

 私たちは仕事で音楽していますので、むしろそれが縛りになってしまうことがあるわけです。例えば「こんな曲が書きたい」「あんな音楽を作りたい」と思ったとしましょう。じゃ、思ったとおり書きゃいいだろうと言われそうですが、なかなかそうでもないのです。

作曲家ストラヴィンスキーの「知財管理」

 趣味なら好きにやればいい、シンプルです。しかし仕事となると、注文をいただいてそれに合うものを作る、演奏する、でギャラが発生し、結果として作品や録音録画などが生まれ、場合によってはその2次利用に関わる著作権なども発生します。

 かつてストラヴィンスキーという作曲家は、生涯ひとつも「自分から」作品は作らなかったという話を読んで、深く考えるところがありました。

 むろんストラヴィンスキーは自らの創意工夫に満ちた人でしたが、ロシア人の彼がパリでデビューし「春の祭典」などで国際的なセンセーションを呼んだりしたのは、すべて秀逸なマネジャー、セルゲイ・ディアギレフがいてのこと。

 彼は自分の創意工夫で音楽を作ったけれど、実際にはあちらこちらからの委嘱作として作曲しているわけで、自分で考え自分で作曲したはいいけれど、演奏のあてがないとか、そういう事態は生涯なかったというわけなんですね。

 それどころか、彼の場合は積極的に作品を売ってお金を作らねばならなかった。ストラヴィンスキーは故国ロシアを出てパリで活躍しますが、そのさなかに第1次世界大戦が起こり、ロシア革命によってソビエト連邦が成立します。

 祖国を失った彼は1920~30年代を欧州で過ごしますが、やがてヨーロッパでも戦争が勃発、39年に米国に亡命します。しかし、「火の鳥」「春の祭典」などの彼の代表作は欧州の著作権で米国ではコピーライトが入ってこない。

 そこで新たにオーケストレーションなど手直しし、米国で書かれた作品、として生活の資を得るべく、懸命の「知財管理」に努めることになるのです。

 今日でもオーケストラの定期演奏会で頻繁に取り上げられる組曲「火の鳥」1945年版、バレエ音楽「ペトルーシュカ」1947年版といった改訂版は、演奏頻度が高くなるよう編成を小さくするなど、プラクティカルな工夫を凝らされた米国時代の産物です。