今年も東京・市ヶ谷の防衛省で自衛隊殉職隊員追悼式が執り行われた。10月13日、その日は土曜日にもかかわらず、早朝から10台ほどはあっただろうか、大型バスが敷地内に入る。観光バスではない。ここに乗っているのは皆、殉職した自衛隊員の遺族である。

 防衛省内の慰霊碑がある一角、メモリアルゾーンと呼ばれるエリアには、これまでの自衛隊殉職者だけではなく陸軍全航空部隊戦没者慰霊碑や、終戦時に責任を取って自決した阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相、杉山元第一総軍司令官、大本営作戦参謀だった晴気誠(はるけ・まこと)少佐の碑などもある。

 晴気誠少佐はサイパン陥落の責任を取る形で、この地、市ヶ谷台で割腹自殺した。享年33だった。この若さで作戦の失敗を一身に背負い死出の旅路とは、いかなる心境であったか、現代の感覚では想像を絶することである。

 こうした先人たちに見守られるように、殉職自衛隊員の慰霊碑はある。今年も全国から多くの遺族が集まり、70遺族123名が参列。新たに殉職と認定されたのは、陸自3柱、海自3柱、空自2柱、そして事務官1柱の計9柱で、これまでの自衛隊殉職者は1831柱に及ぶ。

機雷除去中の事故死を口止めされた海上保安官

 今年は、東日本大震災で登庁する途上で津波により殉職した空自隊員や、災害派遣活動中に亡くなった方も2名含まれているが、殉職者の大半は訓練中などの事故が原因だ。

 しかし、海外での活動が本来任務化され、そのニーズも高まっている昨今、活動範囲の広がりとともに、これからは今まで経験したことのない殉職というケースもあり得る。それを考えれば、いろいろと整理しなければならないことも多い。

 思いは、今から60年以上前の秋に遡る。1950(昭和25)年の10月に朝鮮戦争が勃発し、当時、海上保安官だった中谷坂太郎さんは朝鮮へ特別掃海隊として赴いた。米国からの要請に基づき、近海に敷設された機雷を除去するためだ。しかし、乗っていた掃海艇が触雷して殉職。当時21歳の誕生日を迎えたばかりだった。