ビジネスを進めていく上で、人脈を持っていると都合のいいことが多いものです。普通だったら会ってくれないような相手でも、紹介してくれる人を通すと会うことができます。
自分の知らない分野のことを知ろうとして、いったい誰に聞いたらいいのか分からないような場合でも、関連分野に強い人が親しい人にいるなら、誰に聞けばいいのか教えてくれるでしょう。
「人脈」という言葉がいつできたのか知りませんが、1980年代にはすでに使われていたと記憶しています。当時も今も、「異業種交流会」などの機会を見つけては参加して、名刺を配って人脈づくりにいそしむ人は少なくないようです。
周辺の小国に「献納」する立場だったフィレンツェ
<実力のある共和国や君主は、金銭によらず、自分の力量と軍事力の名声で友好関係を獲得する。>
(『ディスコルシ 「ローマ史」論』、ニッコロ・マキァヴェッリ著、永井三明訳、ちくま学芸文庫)
前回、ローマ第2の建国者と呼ばれたマルクス・フリウス・カミルスの話をしました。カミルスが第2の建国者と言われるようになったのは、ローマをガリア人の侵略から守ったところにあるのですが、理由はそれだけではありません。ガリア人から共和制ローマを救うことで、ローマの国家としての性格を確立したからでもあります。
それは「物事をカネで解決しない」こと。ガリア人相手の投降交渉でやったような「カネによる解決」を、以後、共和制ローマは一切やらなくなったのです。
代わりにモノを言わせるのは軍事力でした。
マキァヴェッリは言います。国力を推し量る方法の1つに、近隣諸国とどのような関係を持っているのかを見る方法がある。
図をご覧下さい。大国A国は、小国のB国、C国から献納(金品を収めること)を受けており、共和制ローマが取っていたパターンです。B国、C国がA国に献納する理由は、侵略されたくなかったり、他の侵略国から守ってほしいからです。A国はそうした彼らのお願いを受け入れる立場です。
D国の場合は逆に、大国が小国に献納をします。これはフィレンツェなど16世紀欧州の大国がよく用いていた方法でした。