評価によって人は向上する場合もあるが、評価の仕方によっては人を萎縮させ本来の才能を発揮できなくしてしまうこともある。
4月5日付「毎日新聞」(電子版)は、千葉県南房総市役所が幹部職員を対象にした「部下による上司評価」のアンケートを実施、その結果をまとめたことを報じている。「民間企業では広く採用されている『上司評価』。行政が導入している事例は珍しいが『成果を測りにくい行政サービスでも、職員の資質向上を図る必要がある』という石井裕市長の発案で初めて実施した」と、同記事は紹介している。
記事でも触れているように、「部下による上司の評価」は企業では珍しくなくなってきている。「いろいろな立場から評価を受けるわけですから正しい評価になるわけです」と、採用している企業の担当者から説明されたこともある。
それでも、本当に正しい評価につながっているのか、という疑問が私にはあった。それは、いまだに消えていない。
南房総市の場合だが、「職場の人間関係に悪影響を与えてはいけない」として結果は一般向けには非公表だそうだが、「経営感覚」の評価が概して低い傾向が散見されたそうだ。そして、「評価される側の管理職からは『部下の考えが分かった』。一方、部下からは『部下の目線から意見を伝えることができた』という声が出るなど、おおむね好評だったとしている」と記事は伝えている。
役所で経営感覚というのは新しい気もする。役所といえども経営感覚が必要になっているのだろう。ただし、本当に評価の目的は達成されたのか、という疑問もある。
評価するには、評価する側にそれなりの知見が必要になってくる。南房総市の場合でも、部下に上司の「経営感覚」を評価するだけの経営感覚があるのだろうか。詳しい内容は公表されていないので南房総市についてとやかく言うべきではないが、南房総市に限らず、評価というと「あいまいさ」がつきまとっている気がする。
評価に対する不満はなぜなくならないのか
効率主義、能率主義が言われるようになって評価は重要な存在になってきた。評価しなければ効率、能率を測れないからだ。効率や能率による賃金体系となれば、なおさら評価は注意深く行われなければならない。
しかし、効率主義や能率主義が広まれば広まるほど聞かれるのが、評価に対する不満である。評価の仕方がおかしい、公平な評価ではない、といった不平不満である。