本来のトヨタ生産方式を説くために始めた本コラムは今「自働化」の話を進めていて、今回はその9回目になります。
先回まで数回にわたって、トヨタ生産方式の肝となる機械工場の「人の仕事と機械の仕事の分離」の改善を取り上げ、機械に関与する人の時間を短縮させ、労働生産性を10倍あまりも向上させてきたという話をしました。
今回は、大野耐一氏が進めてきた改革が「トヨタ生産方式」としてオーソライズされ、全社を挙げて取り組むべきテーマとなったこと、機械工場で発展した「人の仕事と機械の仕事の分離」が、手作業が主体の組立工場で「仕事はあくまで人が主役、機械は黒子(介添え役)」「3K作業は機械にやらせる」といった方向にさらなる深化を遂げていったことなどをお話しします。
「クラウン」でトヨタ流の新車開発方式がスタート
1950年には、日本の各自動車会社はどこも労働争議・人員整理を経て息を吹き返し、戦後復興用のトラック生産で台数を順調に伸ばし、次なる乗用車生産に取り組み始めます。
「日本人の頭と腕で世界に通用する乗用車を」という豊田喜一郎氏の遺志を継いだ豊田英二氏は中村健也氏に全権を託し、国産乗用車の開発を命じました。「全権を託した」とは、自らの権限で市場調査から設計、生産準備、生産、販売までを一貫して見る体制で進めよ、ということでした。
これが有名なトヨタの新車開発方式の始まりでした。日産がオースティン、日野がルノー、いすゞがヒルマンとのライセンス生産から乗用車生産に乗り出したのとは対照的でした。
こうして55年に初代「クラウン」が発売されました。観音開きのドアが有名で、文金高島田の花嫁が乗れる唯一の乗用車とも言われ、一世を風靡しました。中村健也氏は長谷川龍雄氏と共に、その後、初代「コロナ」や初代「センチュリー」も開発し、トヨタの乗用車設計の基礎を作ったのでした。
「カローラ」でここぞとばかりに大勝負
トヨタは60年に乗用車生産専門の元町工場を建て、61年には日産自動車も追浜工場を立ち上げました。どちらも車両生産ラインを2本備え、月産能力は3万~4万台規模でした。
それぞれの工場で生産された乗用車トヨタ「コロナ」と、日産「ブルーバード」の熾烈な販売競争は、それぞれの頭文字を取って「BC戦争」とも言われ、語り種になっていました。