(前回の内容)
「陰謀」(君主を陥れ、政権を転覆させること)を成功させるには、もしくは防ぐにはどうすればいいのでしょうか。マキァヴェッリは、チェーザレ・ボルジア(1475~1507年、マキァヴェッリより6歳年下の軍人)が「マジョーネの乱」をどう処理したのかを目の当たりにしたことで、その術を学びます。
マジョーネの乱とは、チェーザレがロマーニャ地方を攻めた時に、子飼いの傭兵隊長たちの組織「マジョーネ連合」によって起こされた反乱のことです。
当時、チェーザレから「自分たちと傭兵契約を結べ」と迫られていたフィレンツェ政府は、マジョーネの乱の様子を探るために、マキァヴェッリを使節として送り込みました。
マキァヴェッリの目の前で、チェーザレは反乱軍を叩きつぶします。反乱軍と和解するように見せかけて、反乱の首謀者たちを捕らえて殺害。マジョーネ連合を一気に壊滅させたのです。
しかし、そんなチェーザレに落とし穴が待っていました。

 10年以上前、日本の政界で「加藤の乱」という事件がありました。自民党の加藤紘一派と山崎拓派が森内閣打倒のため内閣不信任案に賛成の構えを見せた事件です。世論は、圧倒的に加藤派を支持し、クーデターは成功するかに見えました。

 しかし幹事長・野中広務を中心とした反加藤派の切り崩し工作が成功し、加藤派は敗北します。ついてきてくれた仲間を守ると同時に、敗北の責任を取るため、除名覚悟で山崎拓と2人で不信任案決議に投票しに行こうとする加藤紘一と、「加藤先生、あなたは大将なんだから」と引き止めた、今の自民党総裁、谷垣禎一の姿は多くの国民に強い印象を与えました。

 加藤の乱の敗因は、「不信任に賛成すれば除名し、次の選挙で対立候補を立てる」という党の脅迫に屈した議員がたくさんいたからでした。

 加藤派としても切り崩し工作が行われるのは分かってはいましたが、耐えられない議員がどれほど出るのか、計算が甘かったのです。

 自民党を除名されて党の看板がなくなっても選挙を戦い、当選できる議員が多ければ、こうも屈辱的な敗北にはならなかったでしょう。国民世論の圧倒的な支持を得ていても、最も大事なところが弱かったがゆえの失敗でした。

父親の死に備えて手を打っていたが・・・

 チェーザレもまた、一番大事なところで失敗し、破滅します。

 マジョーネ連合を壊滅させたチェーザレは、自分の征服した地域をロマーニャ公国とし、国民軍を組織し、訓練を始めます。当時の軍隊は各国に雇われた傭兵が行うのが普通でしたが、チェーザレはカネのために戦う傭兵に不信感を持っていたからです。

 チェーザレは、その実力に比して政治基盤はまだ脆弱でした。チェーザレが軍隊を率いていられたのは、父親がローマ教皇アレクサンドル6世で、教皇軍総司令官の地位を持っていたからです。そして、その後ろには大国フランスが控えていました。アレクサンドル6世とフランス王ルイ12世の間で、イタリアを自分たちのものとしようとする約束ができていたのです。