(前回の内容)
「陰謀」(君主を陥れ、政権を転覆させること)を成功させるには、もしくは防ぐにはどうすればいいのでしょうか。マキァヴェッリは、チェーザレ・ボルジア(1475~1507年、マキァヴェッリより6歳年下の軍人)が「マジョーネの乱」をどう処理したのかを目の当たりにしたことで、その術を学びます。
マジョーネの乱とは、チェーザレがロマーニャ地方を攻めた時に、子飼いの傭兵隊長たちの組織「マジョーネ連合」によって起こされた反乱のことです。
当時、チェーザレから「自分たちと傭兵契約を結べ」と迫られていたフィレンツェ政府は、マジョーネの乱の様子を探るために、マキァヴェッリを使節として送り込みました。

 マキァヴェッリがフィレンツェからの外交使節として、チェーザレ・ボルジアの本拠地リミニに到着した頃は、「マジョーネの乱」が発生してチェーザレは危機に陥っていました。フィレンツェから、チェーザレが今後どうなるのかを探る命を受けていたマキァヴェッリは、数日で結論を出します。

「反乱(マジョーネの乱)」の様子を探るために、マキァヴェッリはフィレンツェ政府からチェーザレのもとに送り込まれた。

 マジョーネ連合は敗退する。よって、チェーザレと正式に協定を結ぶべきである。

 なぜか? 反乱を起こしたマジョーネ連合は、腰が引けていたからです。チェーザレは、もともと父であるローマ教皇アレクサンドル6世の教皇軍総司令として軍隊を率いていました。チェーザレに弓を引くということは、すなわちローマ教皇庁を敵に回すということです。

 マジョーネ連合の傭兵隊長たちは、みんなフィレンツェ、ヴェネツィアといったイタリアの大国に雇われて戦争稼業をやっていた弱小君主たちです。そんな弱小国の君主がローマ教皇庁にケンカを売るなら、場合によっては教皇庁を滅ぼすくらいの気概を持って戦わねばなりません。

 にもかかわらず、緒戦に勝ったくらいで即座に和睦を提案してくるというのは、間違いなくビビっていることを意味します。「そんな腰の引けた態度では負ける」とマキァヴッェリは断じたのです。

フィレンツェの立場を理解していたチェーザレ

 加えてチェーザレは能力が高く、マジョーネ連合征伐の準備を着々と進めていたのと同時にフィレンツェの立場をよく理解していました。チェーザレが「フィレンツェの不利にならないように動く」と言ってくれていたことも、マキァヴェッリがチェーザレを評価した理由の1つでした。