ショパン生誕200周年を迎え、記念イベントが目白押しだ。ショパンと言えば「革命のエチュード」など曲にまつわる逸話とともに、その祖国ポーランドを思い浮かべる人も多いと思う。近年、旅行料金の安さも手伝ってポーランドは人気の観光地の1つとなっている。

ポーランド観光には必ずついてくるショパン・ミニコンサート

ポーランドの首都ワルシャワ郊外にあるショパンの生家

 日本からも一通り西欧やアジア旅行などを済ませた人々を対象とした「中級」周遊ツアーが頻繁に出ているが、そんなコースでは200周年でなくてもショパン・ミニコンサートは定番となっている。

 ワルシャワ近郊のショパンの生家にある博物館や市内の至る所で、どんなレベルかも分からぬピアニストが旅行客数名を相手に演奏してくれるのである。

 そんな中にも稀に隠れた才能はいるかもしれないが、観光業が未熟な途上国の民族料理(と思われるもの)を出す外国人向け「高級」レストランでは、レベルの高いミュージシャンに思いがけず遭遇することも珍しくない。

 音楽産業そのものが機能していないため、そういった場で演奏するしかないという事情があるのだが、結局、どんなレベルであるにせよ、演奏が終われば生活の糧である15~20ドル程度の自主製作CDをテーブルまで売りに来る。

 ショパンの曲をよりドラマチックに印象づけているのが、彼の生きていた時代のポーランドの状況である。ポーランド人はいてもポーランドという国はないと言われた時代、18世紀に3度にわたり行われた「ポーランド分割」で、19世紀に入った頃には地図から国名が消えてしまっていたという事実である。

第2次大戦中、ドイツ占領下でショパンの名は禁句に

 ショパンがパリで成功を収めるまでの前半生を描いた『別れの曲』(1934)には、彼の祖国愛と占領した帝政ロシアへの反発から有名な「革命のエチュード」の曲が生まれたというエピソードがある。

 ポーランド「分割」と言うくらいだから当然ロシアだけで行ったものではなく、オーストリアとともにこの映画の制作国ドイツも、そのルーツの1つであるプロイセンとして分割に参加していた。そして、19世紀初めヨーロッパを席捲していたナポレオンの一時的占領を経て、ポーランドの中心地ワルシャワはプロイセンからロシアへと支配権が移っていた。

 そう考えれば制作の意図も見えてくるが、時が進み第2次世界大戦中ともなると、ドイツは占領地ポーランドの危険な愛国者の象徴としてショパンの名前は口に出すことさえ憚られるようになる。

 冷戦期となり、ソ連の衛星国となったポーランドで撮られた『若き日のショパン』(1951/日本劇場未公開)では、帝政ロシアへの反抗が映画のメーンテーマとしてさらに増強されている。ソ連にとっての敵、帝政ロシアに刃向かう革命者は応援するというわけだったが、ロシアという地域に対する反抗は許し難いという微妙な部分もそこにはあった。