1960年代後半からのフォーク全盛時代。フォークの神様と言われたのが岡林信康だ。放送禁止になるきわどい歌をはじめ、社会や世相を“引っ掻く”彼の代表作の1つに「山谷ブルース」があった。

 高度経済成長期に東京・山谷のドヤ街で暮らす日雇い労働者の哀歌とも言えるこの歌のなかに、「人は山谷を悪く言う だけどおれ達いなくなりゃ ビルも、ビルも道路もできゃしねえ」という歌詞がある。

 震災後、頻繁に話題になる「原発労働」というとこの歌を思い出す。この5月東京電力福島第一原子力発電所で作業中に亡くなり、遺族が労災申請をしている大角信勝さん(当時60歳)は、倒れてすぐに医療措置を受けられる環境になく、45キロ離れた病院に搬送され死亡が確認された。彼は日当2万円で働いていた。

 彼が従事した原発の集中廃棄処理施設プロセス建屋内での作業は、東京電力が東芝に発注。元請けになった東芝から4社をはさんで静岡県御前崎市のD建設に下請けさせた仕事の一環だった。大角さんの日当2万円は、5つの会社を通したあとの金額である。

 一般の建設現場の仕事と比べて、危険度からすればこの2万円という数字は決して高くはない。そして、この日当で作業に従事する人たちがいなければ、少なくとも原発事故は収束に向かって進まない。

 かつての山谷とそこを根城とする労働者に対する差別的な眼差しは、もちろんいまの原発労働者に注がれてはいない。しかし、労働に見合った対価や評価を得ているのかというと疑問だ。

 彼らの仕事の重要性が認識されているなら、もう少し違った身分や安全管理という点で労働者が管理されているのではないだろうか。

原発と砂丘の町に関連業者が並ぶ

 こんな疑問を抱きながら先月、御前崎市を訪れた。2004年にそれまでの浜岡町と御前崎町が合併してできた同市は、遠州灘に魚のヒレのように突き出した御前崎半島の先端から西へと続く海岸線とそこから山側へと広がった一帯で形を成している。

中部電力浜岡原子力発電所

 海水浴やサーフィンを楽しむにはもってこいの遠浅の砂浜があれば、遠州灘にはウドと呼ばれる急な潮の流れで人の入り込めない海がある。この浜が大きく広がって盛り上がった小山が浜岡砂丘だ。

 かなり以前から年々砂浜はやせ細ってきたと言われる砂丘の上から見渡すと、正面には濃く青い海に白波がいく筋も立ち、左手には浜岡原発の建屋が目に入る。

 この浜から北に2~3キロのところが旧浜岡町の中心部になる。広々とした国道沿いにどぎつい色と形をした大人の遊び場であるパチンコ屋が建つ。町中を走ると、建築関係の看板を掲げた小さな事業所が数多く目に入る。原発の町ならではの光景だ。

 こうした事業所の1つに、D建設の2階建ての社屋がある。大角さんが亡くなった後、同社の社長K氏は大角さんの妻でタイ人のカニカさんに「50万円やるからこれでタイに帰れ」と言い、カニカさんが弁護士に相談して労災申請したのち、「裏切ったな」と怒った、ということが報道された。