東京から東北新幹線に乗って福島に行った。4月の取材で、福島第一原発から20キロラインと30キロラインに分断された街、南相馬市で出会った人たちをもう一度訪ねるためだ。その後、彼らはどうしているのか。ずっと気がかりだった。

 福島市まで北上して、そこから先は、南相馬市から反対の西へ向かった。県境の峠を越えて、山形県に入った。以前取材ノートに記した携帯メールに連絡してみると「米沢にいます」と返事が返ってきたからだ。

 なぜ山形県に? その謎は、現地に行ってみて解けた。

 太平洋沿いの南相馬市から車に乗り、阿武隈山地を超えて1時間半走ると、福島市だ。福島市街を横切って、さらにもう一山、吾妻高原を越えたところが米沢市なのだ。故郷・南相馬市から車で2時間半走り続けて、二山越え、ようやく放射線量が低くなるいちばん近い街。それが隣県の米沢市なのだ。

会社の敷地を分断した「原発から20キロ」ライン

 米沢駅を出て歩いた。てくてく歩いて、駅と中心街の中間くらいのところ、河川敷のほとりに、グレーの小さな「米沢パークホテル」があった。大学生のような若者が玄関から出たり入ったりしている。閉鎖されたビジネスホテルを自動車教習所の経営者が買い取り、免許取得合宿の宿泊施設に使っているのだそうだ。そこが、福島県から避難してきた人たちが暮らす仮の住まいになっている。お年寄り夫婦、小さな子供のいる若い夫婦と、交通規則の教科書を抱えた若者たちがホテルの玄関ホールですれ違う。団地と大学寮がホテルに同居しているような、不思議な光景だった。

 3月11日の後、暴走する福島第一原発から避難した原発北部の人々は、どこに逃げたらいいのかも分からないまま、阿武隈山地を越えて西を目指した。東は海、南は暴走する原発。北に向かう幹線道路は津波で破壊され、その北の宮城県も壊滅していた。西に逃げるしかなかった。福島市、伊達市など山を越えた「中通り」地方は避難所が早々に埋まってしまったため、かなりの数がさらに西の山形県に逃がれた。

 木幡竜一さん(47)もその一人だ。3月15日に米沢市にたどり着き、4月1日まで体育館の避難所で暮らした。米沢で知り合ったボランティアの人々の善意が手厚くて感激した。「いつまでもお世話になりっぱなしでは申し訳ない」と、いったん南相馬に戻った。私が木幡さんに出会ったのはその時だ。が、南相馬に戻ったあとも苦境が続く木幡さんに、米沢のボランティアの人たちが「こっちに来たら」と声をかけてくれた。6月から戻って避難生活を続けている。

 木幡さんを襲った悲劇は、国の愚かな政策で分断された南相馬市の悲劇そのものだ。何と経営する建設会社の敷地のまん中を「原発から20キロライン」が通ってしまったのだ。