「本流トヨタ方式の土台にある哲学」について、「(その1)人間性尊重」「(その2)諸行無常」「(その3)共存共栄」「(その4)現地現物」という4項目に分けて説明しています。
ここで考える「(その2)諸行無常」というのは、高邁な哲学を言うのではありません。実務家にとっては、あらゆるものが時間と共に変化するということです。
変化をどう捉え、どのように対応すればよいのかを、次のような項目に分けて考えていきたいと思います。
<1>諸行無常と日本人
<2>自分の城は自分で守れ
<3>標準作業時間とは何か
<4>2007年問題は解決したか
<5>企業は生き物、鍛えなければ衰える
<6>今日は明日のためにある
今回は <2>の「自分の城は自分で守れ」についてお話ししましょう。
倒産の危機の中で社長に就任した「大番頭」
「本流トヨタ方式」の源は、発明王、豊田佐吉翁(1867~1930年)にたどり着きます。佐吉翁が不屈の魂で発明を成し遂げ、豊田自働織機という事業を始め、同時に「自働化」という全く新しい基本概念を打ち立てたのでした(社名の「自働」は後に「自動」に変えられました。その経緯については改めて触れます)。
1937年、佐吉翁の長男である豊田喜一郎氏が自動車会社を起こし、また「ジャスト・イン・タイム」という全く新しい基本概念を打ち立てました(「自働化」と「ジャスト・イン・タイム」という本流トヨタ方式の2本柱については、別の回で詳しく説明します)。
終戦後、金融引き締め政策によってトヨタ自動車は資金繰りがつかなくなり、倒産の危機に瀕します。そんなさなかの1950年、潰れかけたトヨタの社長に就任したのは、「トヨタの大番頭」と自ら名乗る石田退三氏(1888~1979年)でした。
服部商店の社員であった石田氏は、豊田佐吉翁を支援していました。発明に没頭する佐吉翁は石田氏に会う度に、「ワシは、研究、研究でさっぱりゼニが儲からんで、オマンマもよう食べんことがあった。発明家がそれではいかん。何とか安心して研究できるように、石田、ひとつカネ儲けしてくれ」と言い続けたといいます。
後に、石田氏は今の豊田自動織機に入社し、佐吉翁を支え、豊田喜一郎氏が自動車産業を興すのを助けました。そして、50年には喜一郎社長の後を継いで、トヨタ自動車の社長に就任したのでした。
石田氏は佐吉翁を偲んで、「私がいっぱしの商人として、その根性を認められているとすれば、それはまさしく佐吉翁が注入したものである。発明家と商人という違いこそあれ、あの人の根性、あの気迫が私をこのようなガンコ者に仕立て上げた」と述懐しています。