東京から南へ約360km、周囲を断崖絶壁に囲まれた青ヶ島。その切り立った地形により、定期船の就航率は5割程度と低く、人の往来も簡単ではない「絶海の孤島」だ。この環境ゆえ、古くから独自の文化が数多く育った。その1つが「還住太鼓(かんじゅうだいこ)」である。同地に暮らす荒井智史さんは、この郷土芸能をはじめ、故郷の文化や自然を全国の人に伝え、青ヶ島のディープなファンを生み出している。
八丈島とともに発展した太鼓文化。
2人の奏者が会話するスタイル
伊豆諸島の南部の島々では長い間、太鼓が親しまれてきた。神事の儀式で重要な役割を果たした他、お祝いや宴会の場など、人々の遊びや楽しみとしても愛されてきたのが特徴だ。そして、こうした遊びとしての太鼓文化を継承しているのが、青ヶ島の「還住太鼓」である。
「還住太鼓のルーツは、隣の八丈島で発展した『八丈太鼓』にあります。日々の遊びの中で発展した点や、昔から女性が叩くことが多かった点など、共通項が大きな特徴ですね」
そう話すのは、還住太鼓の文化を伝える「青ヶ島還住太鼓」の代表を務める荒井さんだ。
東京には11の有人離島があるが、このうち、青ヶ島と、その隣の八丈島は文化的なつながりが深い。たとえば2島が使う独特の方言は「八丈方言」と呼ばれるほか、上述のように太鼓文化も影響を受けている。
「太鼓の叩き方も、八丈太鼓と共通のスタイルを持っています。1つの太鼓を2人で叩くのですが、太鼓の片面で1人が『下打ち』という決まったリズムを刻み、そのリズムに合わせて、もう1人は反対の面で『上打ち』という即興の演奏をします。形式の決まった儀式の場だけではなく、太鼓を 日々の楽しみとして叩かれていたからこそ特殊な即興の太鼓文化が発展しました」
上打ちの様子から「“よく喋る太鼓”だと言われることも多い」と荒井さん。しかし、「下打ちのリズムをきちんと聞いて息を合わせないと、心地よいアンサンブル、いわゆる“興に乗る”ことはできません。実は聞くことや相手を思いやることが重要なんです」という。
ルーツは八丈太鼓だが、青ヶ島独自に発展した部分もある。その代表がバチ回しだ。2本のバチを高く放り上げて回転させる表現や、ある種の舞のようにバチを運ぶ姿は還住太鼓の代名詞となっている。
荒井さんも小さい頃から太鼓に親しんできた。高校進学を機に本土へ出て、その後、太鼓演奏家として活動。30歳となった2011年9月に島へ戻り、整備工場やレンタカー屋を営む傍ら、還住太鼓の普及に努めている。「青ヶ島還住太鼓」のホームページを作り、文化を伝える他、太鼓イベントにも数多く出演してきた。
さらに荒井さんライフワークとなっているのが、島の子どもたちと毎週行う太鼓レッスンだ。
「2人が会話するような太鼓のスタイルだからこそ、子どもたちが成長したり、いろんな経験を積んだりすると、音に反映されるんですよね。太鼓を通して、協調性やコミュニケーションを育んでいる面もあるかもしれません」
レッスンでは、太鼓の前に列をつくり、順番に叩いていく。さきほどまで大きな声ではしゃいでいた子どもたちが、バチを構えて向かい合い、真剣な表情でお互いに目を合わせる。相手の音を“聞く”という太鼓のスタイルがよくわかるシーンだ。
ところで、還住太鼓の「還住」という2文字は、青ヶ島の歴史において大きな意味がある。
江戸時代末期の1780~1785年、青ヶ島は噴火活動が活発化。1785年の大噴火では集落すべてが火山灰に埋まり、島民は苦渋の決断でこの地を離れた。渡った先は八丈島。「当時、200人を超す島民が避難し、青ヶ島は無人島になりました」と話す。
その後、島民は度々故郷に還り住む「還住」を目指すが、八丈島と青ヶ島を隔てる黒潮の荒海に何度も打ち砕かれたという。しかし、1817年に名主となった佐々木次郎大夫が青ヶ島再興を再び目指し、1835年に還住を達成。大噴火から50年後のことだった。
こうした歴史とともに、太鼓文化を伝えようと1978年に銘打ったのが「還住太鼓」だ。つまりこの名称には、太鼓文化を伝えるだけではない、この島の大切な歴史を語り継ぐ意味もある。
島の自然に残る「還住」の足跡。
噴火後230年で再生した森
そんな青ヶ島の特異な歴史は、自然にも現れている。ここは世界でも稀な二重式カルデラ火山であり、断崖絶壁の「外輪山」の内側にカルデラの森が広がる。
カルデラの大部分は「池の沢」という地名で親しまれるが、その名にある“池”は見当たらない。
「かつてここには大池・小池と呼ばれる湖が存在し、貴重な生活水となっていましたが、噴火によって溶岩で埋もれました。以降、島民は雨水を頼って生活することとなります」
さらに荒井さんは森に入り、噴火の歴史を伝えてくれる。たとえばこの地には、環境省レッドリストの絶滅危惧種(IB類)に指定されている「オオタニワタリ」というシダ植物が群生している。
その植物たちの根元を見ると、固まった溶岩が地面を覆い尽くす。「ここは噴火後230年で再生した森であり、溶岩の上に植物が育っているのです」と荒井さんは説明する。
そのほか、青ヶ島にはタラの芽も自生しているが、イノシシやシカなど、タラの芽にとっての外敵がいないため、本来あるはずのトゲもないという。こういった青ヶ島の植生に興味を持つ人も多く、研究者が訪れるケースもあるようだ。
カルデラの森には、噴火で誕生した丸山という小さな山がある。そこにはたくさんの噴気孔が顔を覗かせ、熱い噴気が至るところで立ち上っていた。
「噴気孔は島の言葉で『ひんぎゃ』と呼ばれます。その語源は火の際(ひのきわ)だと言われていますね。ひんぎゃに近寄っても硫黄などの匂いがしないのは、噴気のほとんどが水蒸気のため。この熱を使った地熱釜やサウナがあり、島民たちが利用しています」
この島に広がる魅力を、
ディープに伝えるシンポジウムを開催
青ヶ島の魅力はこれだけでは終わらない。島の郷土食も豊富で、名産のカンモ(サツマイモ)を輪切りにし、乾燥させた保存食「きんぼし」などは、船の往来が難しく、食糧がない時代の貴重な食べ物だったという。
さらに、サツマイモを原料にした青ヶ島の焼酎「青酎(あおちゅう)」も人気だ。製法は江戸時代の頃から変わらず、作り手の杜氏によって味わいが変わるのが特徴。島で青酎が出されるときは「○○さんの青酎です」と、杜氏の名前も併せて伝えられる。
自然や食にも垣間見える、青ヶ島の文化。さらに「信仰」においても、この島独特のものがあるようだ。
「道路沿いの石垣を見ていくと、ところどころに石垣を掘って、三角錐の火山石を立てている場所があります。これは“峠さま”といい、三角錐の石は神様の御神体。昔から険しい箇所に峠さまをまつり、無事を祈ってきました。それが今でも残っているんですね」
この島を覆う断崖絶壁の地形。その特殊な環境が、住む人の信仰にも影響を与えていたのだろう。
これらの情報は、すべて荒井さんが島を回りながら教えてくれたもの。郷土芸能、植生、食、信仰―。面積にしてわずか6平方キロメートル、人口170人弱の青ヶ島には、あまりに濃密な世界が広がっている。
こういった青ヶ島の魅力を伝えようと、「ハロー青ヶ島 」というTwitterアカウントの運用や、島内限定配布の冊子「HELLO!!青ヶ島」の制作について、荒井さんを中心に行ってきた。さらに2023年2月12日には、より島の実像に迫る「青ヶ島シンポジウム」を都内で開催する。(詳細はハロー青ヶ島Twitterで告知予定)
これらの活動は「東京宝島アクセラレーションプログラム」に選定されており、都の支援を受けながら島の情報発信・ブランド化を進めてきた。そうして荒井さんが目標に据えるのは、青ヶ島のコアなファンを造り、関係人口創出につなげること。だからこそ、島の魅力を深く伝えることをひたすら追求する。
たとえばシンポジウムもそのひとつ。大きく3部構成になっており、1部は青ヶ島の植生、2部は神事について、その道の第一人者である研究者を招き、学術的な観点から語ってもらう。3部では太鼓を中心とした郷土芸能を紹介する。「今回は素晴らしい女性の叩き手に集まっていただきました。還住太鼓や八丈太鼓の特徴である美しい”女打ち”が見られると思います」と口にする。
島外への深い情報の発信、そして地元の子どもたちへの文化継承。荒井さんにとって、こういった活動が一番の楽しみだ。
「子どもたちや次の世代が島の文化を受け継げるように、常にアクティブな状態にしておきたいですね。また、僕はここに帰って10年と少し経ちますが、活動の中でいろいろな人とつながることもできました。だからこそ、これからも同じペースで島のことを伝えていきたいと思います」
絶海の孤島といわれ、人も少ない青ヶ島。なぜここに住むのかと、思わず疑念を抱く人もいるかもしれない。しかし、その文化や歴史を知れば知るほど、この島に惹きつけられる理由が見えてくる。その深い魅力を、荒井さんはこれからも発信していく。
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