救急救命士しか分かり得ない
「現場学」を確立していく

 救急現場や病院への搬送時に救急救命処置を下す救急救命士。わずかな時間にどのような処置を行うか、ひとつの判断が生死に関わるといっても過言ではない。

国士舘大学 防災・救急救助総合研究所 教授 植田 広樹 氏

 国士舘大学大学院では、こういった領域を専門にする「救急システム研究科」を有する。国士舘大学 防災・救急救助総合研究所の植田広樹教授(博士)も、この研究科で救急救命学を研究する一人だ。

 植田氏は、高校を卒業後、約20年にわたり消防職員として働いた。もちろん、救急救命にも携わった。その後、現場を離れて救急救命士の育成に携わろうと、大学院で学び直したという。そして現在、この領域を研究しながら、救急救命の教育者や、救急救命士の国家資格取得を目指す学生を指導している。彼が伝えるのは、現場を経験した者にしか分かり得ない、救命の知識や判断だ。

「これまで、救急救命士への指導は、医師が多くを担っていました。医師は豊富な医学知識がありますが、救急救命士は、特殊な現場で人命救助を行わなければなりません。機材には限りがありますし、搬送中の車内での医療行為には相応の技術が必要です。他の医療従事者とはまったく違った“現場学”が求められるのです。そこで、私たちが救急救命を研究し、現場学のノウハウを体系立てたい。そしてそれを、未来の救急救命士や教育者に伝えていきます」

 救急救命の現場学を体系化する――。そのために、どんな研究を行っているのだろうか。植田氏がここ8年ほど研究しているのが、救急現場でのアドレナリン投与の効果だという。

「アドレナリンは、心停止した傷病者に対して、心臓の運動再開を促す目的で投与されます。平成18年に、救急救命士による現場での投与が可能となりました。しかし、まだ歴史が浅く、どういったタイミングでアドレナリン投与を行えば効果があるのか、またはリスクになるのか、具体的なエビデンスは多くありませんでした」

 アドレナリン自体が心臓の運動を助長することははっきりしていたが、一方で、仮に心停止から回復できても、同時に活動停止した脳機能の回復は間に合わず、結果、その後寝たきり状態になるリスクもあった。「現場の救急救命士は、そのジレンマの中でアドレナリン投与に迷うケースも少なくなかったのです」という。

通報から投与までの時間と
その後の脳機能の状態を調査

 そこで植田氏は、アドレナリン投与と、その後の脳機能改善の相関性を研究し始めた。ここで活用されたのが、ウツタインデータというもの。消防職員は、出動ごとにデータを細かく記録している。出動時刻から傷病者と接触した時刻、現場で行った処置とそれぞれの時刻、さらには患者の予後の経過まで、すべてウツタインデータに記録されている。特に日本は、その記録が詳細かつ豊富に蓄積されているという。

「ウツタインデータをもとに、救急現場でのアドレナリン投与のタイミングと予後の関連を調べました。まず、隊員が傷病者と接触した時刻から10分以内に投与した症例と、それ以降に投与した症例の予後を調査。その結果、10分以内に投与した方が、明らかに予後の経過が良好でした」

 しかし、このデータだけでは、救命士にとって「十分な判断材料にはなりません」と植田氏。というのも、現場に到着した後、より早期にアドレナリンを投与する方が脳機能の改善が見込めることは判明した。しかし、実際の救命は、現場までの到着時間を踏まえる必要がある。

「もしも現場への到着に時間がかかった場合、それでもアドレナリンを投与すべきなのか、通報から何分以内ならアドレナリンを投与してよいのか。現場の救命士が知りたいのはこの点です」

 この理由から始めたのが、現場への到着時間も含めた予後調査だ。植田氏は、通報から16分以内に救急救命士が傷病者に接触し、かつその接触から22分以内にアドレナリンを投与した症例をピックアップ。症例の数は1万3326件にのぼった。これらについて、通報から接触まで8分以内のグループと、8〜16分のグループに分けた。

 その上で、両グループにおけるアドレナリンの投与時間と予後の脳機能を分析。すると、どちらのグループも接触から10分以内にアドレナリンを投与した方が脳機能の予後は良好だった。つまり、通報から16分以内に傷病者へ接触できたなら、より早くアドレナリンを投与した方が予後は良好になる可能性が高いといえる。

 現場の救急救命士にとって、ジレンマだったアドレナリン投与。この論文のエビデンスが加わることで、救急救命士の判断基準を明確にできるかもしれない。通報から16分以内に傷病者と接触できたなら、アドレナリンをすぐ投与する。こういった行動指針につながるという。

「ウツタインデータは、消防職員が蓄積してきた貴重なデータです。とはいえ、職員は日々の任務が忙しく、たまったデータを分析するのは到底難しい。私たちのような研究者がそのデータを分析して、現場にフィードバックすることが重要です」

 うれしかったのは、論文を学会で発表したとき。現場で働く救急救命士たちが「参考になった」「投与の判断基準を整理できた」といってくれたという。

 アドレナリン投与に関する研究は、今まさに世界中で行われており、早い投与の効果を示す結果が増えているという。日本で作られている蘇生ガイドラインでも、2021年の改訂版ではアドレナリン投与の推奨度が増した。

 ひとつひとつの研究結果がエビデンスとなり、現場の救急救命士の動きを変えていく。それが「目の前の命を救うことにつながります」と植田氏。現場にいた頃、何人もの人が目の前で亡くなる瞬間を見てきた。その経験があるからこそ、今やっている研究の価値やメリット、人命救助とのつながりがわかる。これこそが「救急救命学を突き詰める意味」だと続ける。

エビデンスと現場
2つの要素を教育に折り込む意味とは

 冒頭で触れたように、植田氏は消防職員として現場で働いていたが、ある時から、後進の教育や研究の道に進んだ。救急救命士の専門学校に勤務しながら、国士舘大学大学院に入学。修士と博士を取得して、大学教授となった。

 植田氏は「論文なんて一度も書いたことがなかったので、最初は本当に苦労しました」と笑う。しかし、あきらめようとは思わなかった。救急救命のデータを研究すればするほど、新しいエビデンスがわかってくる。「それを早く論文にして現場に伝えたかった。大変さよりもその気持ちが勝りました」と振り返る。もちろん、こうして日々新しく出るエビデンスは、植田氏の授業を受ける学生たちに伝えられる。最新の研究結果や現場学を知れる環境にあるのだ。

 アドレナリン投与の研究においても、現場までの到着時間を加味して分析したのは、まさに植田氏の現場経験が生きているという。救急隊員の到着はどうしても時間差が発生するからこそ、その要素を考慮したデータ解析を行った。

そして彼は、学生にとって、エビデンスと現場経験の両方に触れている植田氏の言葉から「多くのことを吸収できるはず」という。

「さまざまな処置の重要性を説明するとき、エビデンスにもとづいて伝えると、学生の理解度は変わるはず。さらに、現場での経験を合わせることで、机上のマニュアルではない、より実践的な情報が伝わるでしょう。現場とエビデンスが共存した指導、教育を受けることは、学生の大きなメリットになるといえます」

 植田氏が籍を置く救急システム研究科には、彼のように消防の現場を経験した後、救急救命士の教育に携わろうと入学する人が多い。または大学卒業後、そのまま大学院に進学し、教育者を目指す人もいる。いずれの大学院生も、エビデンスと現場経験を合わせた知識を享受できるのは、大きな価値になる。まさにそれは、この学科で、植田氏のもとで学ぶ意義ともいえるだろう。

 救急救命士法制定以来約30年ぶりに一部が改正され、医療機関内での救急救命処置が可能になり、今後は医療機関の現場を経験した救急救命士も増えてくる。そうして、いずれは彼のように、消防の現場経験者のみでなく、様々な現場と研究の両方を知る人が増えることを望むという。それが、よりよい救急救命の未来を作っていくのだ。


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