(篠原 信:農業研究者)
「郷に入っては郷に従え」
新規就農したり、田舎暮らしを始めようとする人が最初に思い浮かべ、行動指針にしようとする代表的な言葉ではないだろうか。言葉には不思議な呪縛力があって、前もってこういうことわざがあると、マニュアルかテキストのように感じて、なるべくその通りに行動しようとする。
その土地に根を下ろそう、その土地の人間になりきろうとして、「郷に従う」を徹底したのに、いつまでたってもよそ者扱いが終わらず、しまいに疲れてしまい、その土地になじむ努力さえ放棄してしまう事例は、少なくないようだ。「よそ者のクセにえらそうに」と言われて面白くなく、地元の人は「因習に縛られているだけなのにえらそうに」と思われて面白くなく。関係がこじれることも多いようだ。
「郷に入っては郷に従え」ということわざは、そろそろバージョンアップした方がよいのではないだろうか。筆者が考える、より適切な表現は「郷に従う」のではなく、「郷に敬意を抱き、郷を面白がり、郷に感謝する」だ。そして、「よそ者」であるという立ち位置のままでいることだ。
「よそ者」でなくなるのは三代目から
田舎ではなく京都の話だが、京都人として認められるには三代かかると言われている。一代目は京文化で育っていないので、死ぬまでよそ者。二代目は、子どもの頃に京文化に触れているが、親が異文化を持っているからまだまだ。三代目になってようやく、親も京文化になじみ、生まれながらに京文化の中で育っているので、京都生まれの京都育ちとして認められるのだという。
これは恐らく、京都に限ったことではない。よそ者の流入が比較的少なく、先祖代々その土地で住み続けた人が中心の町村なら、人間心理として同じことが言えるだろう。移住したばかりの一代目は、その土地の人間になりきれず、ずっと「よそ者」だと自覚を持っておいた方がよいように思う。