人の顔はなぜこんなにも多様なのか

 最近、あることがきっかけで、事物をありのままに丁寧に観察することの大切さを思い、デッサンの真似事を始めた。人の顔を描いてみて痛切に感じるのは、外見的には「顔」にその人の特徴が凝縮されているにもかかわらず、その差はちょっとした違いでしかない、ということである。その人の顔に似せることは殊のほか難しいのだ。

 何回も修正して描いていると、ある瞬間から急にその人に似てくる瞬間がある。各部位の特徴を掴んで少々誇張するのも大切だが、それよりも全体のバランスが出来・不出来を左右するのだ。

 もう一つ不思議に思うのは、同種の他の動物は我々には同じに見えるのだが、なぜ人間の顔はこうも異なって見えるのか? という疑問である。ペット化された犬猫ならば、個々の判別もつくが、昆虫や植物に至っては全く見分けがつかない。

 大自然の造作物である限り、これは意味ある“作為的”である可能性が高い。ただ、動物からしてみれば、顔以外にも異なるところは幾らでもあるではないか、と言われてしまうだろう。

 におい、声色や仕草、大きさ、性格などである。視覚情報に多くを頼る人間は、顔以外の違いを認識する能力が他の動物たちと比べ、はるかに劣っている。だから目で認識できるパートを増やしておいたのかもしれない。

個性は「出てしまう」もの

 個性は「Character」と訳されるが、「He is a character.」と言うと、「彼はひとかどの人間である」という意味や、少し変わった人という意味になる。

 個性的に生きなければならないとか、彼女は個性的で魅力がある、などと言われ、個性的になろうと努力する人もいる。

 だが、これはよく考えると少しおかしなことで、個性とはいくら隠しても出てきてしまうものなのだ。良い個性もあるし、中には困った個性も当然あるだろう。“クセ”と言い換えることもできるかもしれない。