福島県から避難生活を続ける人々を訪ねる再訪記を続ける。取材のため避難先を訪ねると、福島で起きた話を聞くのに、他県にばかり行くことになる。私が取材した人では、隣県の山形県米沢市で避難生活を送った人が多かった。群馬県や埼玉県など福島から遠く離れた場所もあった。

 渡辺理明さん(43)もそうだ。渡辺さんに最初に会ったのは、2011年の夏、山形県だった(「野球を教えられなくなった少年野球の監督」)。米沢市で避難所を訪ねたとき、集まってくれた1人だった。渡辺さんは自分が暮らす同県寒河江市の旅館に私を連れて行ってくれた。8畳ほどの和室に、一家6人が寝起きしていた。布団をぎっちり敷き詰め、合宿か修学旅行のようだった。その後、市内にアパートを借りて生活を始めたときも訪ねた。福島第一原発事故から2年4カ月後の今年7月、渡辺さんは依然一家で山形県に避難生活を続けていた。

避難生活が2年を超え体は限界に

 東北新幹線で福島駅まで行くと、飯舘村や南相馬市に行くときは駅前でレンタカーを借りて東へ走る。山形へ行くときは、そこで山形新幹線に入り西に走る。方向が完全に逆だ。

 渡辺さんは山形駅前まで自動車で迎えに来てくれた。

 「お元気ですか」

 「いやあいやあ、まあ何とかやってますよお」

 そんな挨拶を交わす。いつもの人なつこい笑顔だった。

 「地元名物、食べに行きましょう」

 そういって、寒河江名物のそばや、さくらんぼアイスの店に連れて行ってくれた。遠来の私をもてなしてくれているのだ。

 3回目の山形の夏を迎えていた。南相馬市に比べると、山形県寒河江市は夏が暑く、冬は積雪が厳しい。雪かきなどしたことがなかったのに、こちらでは雪かきをしないと冬は生活できない。

 「積雪にはやっと慣れました。でも暑いのはがまんできないです。ヤマセ(福島県浜通り地方に夏期に吹く強い冷風)とかないですしね」