大津のいじめ事件は、ネット上で加害者のプライバシーが暴露されたり、大津市の対応のまずさもあり、今も騒ぎが収束する気配はありません。そんな中、一部に、加害者叩きも一種のいじめだとして、自制を求める意見も散見されます(加害者情報の真偽はここでは問いません)。
この意見、確かにその通りなのですが、加害者叩きをしている人たちには、全く説得力を持たないでしょう。むしろ逆に、ますます加害者叩きが進行すると思われます。
なぜなら、自制したところで、加害者も、いじめを無視してきた学校も教育委員会も反省するとは思えないし、むしろ彼らの責任回避を助長すると思われるからです。
国家の安定のためには国民の「弾劾権」が必要
<自由を守る役目を国家から委ねられている人物にとって、国家の自由を侵そうとする計画について、民会、行政官の委員会、法廷に市民を告発し、弾劾する権能ほど、有効で必要なものはない。>
(『ディスコルシ 「ローマ史」論』、ニッコロ・マキァヴェッリ著、永井三明訳、ちくま学芸文庫)
マキァヴェッリは、国家の安定を維持するために誰もが弾劾権を持つのがいいとしています。誰もが告発する権利を持ち、告発を受けた側は、告発を十分に尊重して採択するようにしなければならないとするのです。
その理由は、第1に市民が告発を恐れて国家へ反逆を企てなくなること。もう1つは特定の市民に対して巻き起こっている怒りに“はけ口”を与えてやれることです。彼らの怒りをコントロールし、鎮めるはけ口がないと、市民は非常手段に訴え、最終的には国家全体を危機に陥れるからです。
マキァヴェッリが第2書記局長になる前のフィレンツェも、告発による弾劾が行われなかったため、危機的な状況に陥っていました。
ジロラモ・サヴォナローラが神権政治を行っていた時代、サヴォナローラ派の貴族、フランチェスコ・ヴァローリが君主のように振る舞っていました。サヴォナローラが浮き世離れした修道士なのをいいことに、ヴァローリは政治の実権を握って権勢を振るっていたのです。野心家と見られてもいて、下手をすると本当に共和国フィレンツェの「君主」になりかねないと懸念されていました。