“歴史の生き証人”。1954年3月1日、南太平洋マーシャル諸島で水爆実験に遭遇した遠洋マグロ漁船、第五福龍丸のことをこう呼んでいいだろう。
時代によって見向きもされなくなり、あるときはほとんどこの世から姿を消したが、数奇な運命をたどっていまもその原型を残している。
つい先日、何年かぶりに「第五福竜丸展示館」を訪れてみると、小学生が団体で詰めかけ、数人の中学生が「放射能ってそんなに恐ろしいんですか」と、説明をする展示館の人に素朴に尋ねていた。
また、この日乗組員の1人で、ある時期から事件について積極的に語り始め、自らの体験から反核・平和を訴え続けてきた大石又七さんと出会った。大石さんはこの展示館でこれまで700回にわたる講演をしてきた。
夢の島のゴミだった第五福龍丸
放射線の問題や核の問題が議論されるようになったいま、この船は注目されるようになり、日本だけでなく世界の核被害についての実態への関心を引き出す手がかりにもなっている。
23人の乗組員とともに被曝した第五福龍丸はいま、東京都江東区の夢の島公園のなかにある「第五福竜丸展示館」のなかで、全長約30メートル、高さ約15メートルの船体を少し窮屈そうに収めている。
事件から57年、木造漁船としても歴史的な価値を持つ第五福龍丸だが、老朽化が進み、修復の必要が迫るなかで、なんとか船体を持ちこたえていると言っていい。
「夢の島公園」と言われる場所は、古くは「夢の島」と言われ、戦後東京都のゴミが増大するなかで、ゴミの最終処分場となり、いわばゴミ捨て場といったイメージが強かった。それが埋め立てによって整備され、今日のようにスポーツ施設などが広がる公園となった。
ここに展示館が建設されたのには理由がある。ある意味歴史的な遺産ともいえるこの船は、かつてこの夢の島の一角に捨てられていたのだ。ゴミの島の一角に“ゴミ”として放置されていたことがある。