オリンピアンから開発途上国支援の道へ
―― 井本さんは競泳選手として活躍された後、開発途上国支援の道に進まれました。アスリートのキャリアとしてはやや異色ですが、どのような思いがあったのでしょうか。
井本氏:私が競泳選手として活動していたのは1990年代です。3歳から泳いでいて、14歳のときに初めて日本代表として1990年の北京アジア大会に出場しました。その後10年ほど日本代表として国際大会に出場し、悲願の夢だった1996年のアトランタオリンピックにも出場しました。その後、2000年のシドニーオリンピック選考会で競技から退きました。引退後は英国の大学院で紛争復興支援を学び、修了後は独立行政法人 国際協力機構(JICA)に勤務しました。
一見、オリンピアンとしては変わった経歴に思われるかもしれませんが、実は、競泳選手としての経験と関係があります。というのも、毎年国際大会に出場していた際、貧しい国の選手や、祖国では紛争が起きていて、沢山の市民が亡くなっているような国の選手に会い、不公平感を痛感せずにいられませんでした。私たちは水着やウェアなど支給される物に溢れ、最高のトレーニング環境で、何の心配もなく、競技ができていました。高校生の頃には「引退したら恵まれない環境にいる人たちのために働きたい」と思うようになりました。
JICAではシエラレオネ、ルワンダなど、アフリカの紛争後の国々で戦後復興・平和構築支援に取り組みました。2007 年からは国連児童基金(ユニセフ)の職員として、スリランカ、ハイチ、マリなど紛争や災害下の国々で教育専門官として働いています。ギリシャで難民の教育支援をしていた2020年には、コロナ渦で渡航を断念した日本代表団の代わりに聖火を受け取る大役を24時間前に引き受けました。
東京2020大会ではジェンダー平等推進チームで活躍
―― 東京2020大会では組織委員会のジェンダー平等推進チームのアドバイザーも務められました。ジェンダー平等推進チームの取り組みについて改めてご紹介ください。
井本氏:2021年1月に、ユニセフを休職して日本に戻っていました。2月に、東京オリパラの組織委員会の新会長に、橋本聖子さんが就任され、ジェンダー平等推進チームが発足したのです。小谷実可子さんがチームリーダーを務められ、私もチームに参加させていただくことになりました。
国際オリンピック委員会(IOC)は近年ジェンダー平等に力を入れていて、2018年には「ジェンダー平等再検討プロジェクト」を立ち上げていました。しかし、東京2020大会で「多様性と調和」をテーマに掲げていながら、その中でジェンダー平等に関しては、何が問題で何を解決しようとしているのかが明確になっていませんでした。障がい者への理解促進やバリアフリーなどが議論の中心といった状況でした。「多様性」は重要な理念ですが、その中の一つ一つのテーマをきちんと掘り下げないと課題がぼやけてしまうリスクもあります。
7月の開会式まで4カ月ほどしか時間がなく、また人員予算も限られている中で、ジェンダー平等推進チームとして何ができるのか、何をすべきかをチームで議論しながら進めていきました。例えばその一つが、選手のメディア表象をめぐる課題への取り組みです。IOCは2018年に「スポーツにおけるジェンダー平等、公平でインクルーシブな描写のための表象ガイドライン」を公表し、2021年6月には改訂版も出しました。私と組織委員会理事の來田享子さんとでこれを和訳し国内外のメディアに配布したところ、大きく取り上げられ、スポーツだけでなく、社会一般、教育の分野でも参考になると評価していただけました。
今まで日本のスポーツ報道では女性アスリートの容姿や私生活が過度にメディアで扱われ、男性と比べるとスポーツそのものや選手としての実像に迫らない記事が数多く見受けられていました。女性アスリートの力強さ、たくましさ、かっこよさをありのまま伝えることができれば、社会に蔓延る「女らしさ」のステレオタイプを打ち破ることができる。私たちの提言により、東京2020大会においてジェンダーの偏った報道がどこまで減少したかは検証が必要ですが、次第に変化が生じているのではないかと手ごたえは感じています。
―― 東京2020大会では他にも、女性のアスリートの参加者数増加などのほか、さまざまな新しい取り組みがなされました。成果についてどのような印象をお持ちですか。
井本氏:ジェンダー平等推進チームでは、IOCの「ジェンダー平等のための表象ガイドライン」の25提言に沿って、現在地の洗い出しをして報告書にまとめました。例えば、大会への女子選手の参加割合は、オリンピックが約48%、パラリンピックが約42%で、いずれも大会史上最高でした。
また、競技形式及び技術的ルールでは、男女混合種目が、前回大会に比べてオリンピックは9種目から18種目に、パラリンピックは38種目から40種目に増加しました。今回金メダルを獲った卓球のミックスダブルスでは、伊藤美誠選手がペアをリードし、水谷隼選手が「女房役」のような、従来のイメージとは異なる男女の関係性を強調しました。男女が平等であるだけでなく、ジェンダーの固定観念を打ち破るような好例だったと思います。
ただし、参加者数はほぼ平等ですが、中身はまだまだです。米国やカナダなど先進国では女子選手の方が多く、中国は女性のスポーツへの参加率そのものが低いのが現状です。さらに深掘りし、どの国が女子選手の参加が少ないのか、それらの国々が女性アスリートをどう支援できるのかしっかりと見ていかなければなりません。また、女性のコーチも依然として少なく、東京オリンピックに出場したコーチ全体で13%、パラリンピックで20%でした。女性のコーチの育成を各国で進めていかなければ、本当のジェンダー平等はなかなか実現しません。
2030年冬季オリンピック・パラリンピックの招致を札幌市が行うことへの期待
―― 2030年冬季オリンピック・パラリンピックの招致を札幌市が目指しています。ジェンダー平等をはじめ、SDGsへの関心の高まりなどが期待されます。井本さんのお考えはいかがでしょうか。
井本氏:関心が高まっているとは思います。大切なのは、計画段階である今から、課題を分析し、戦略的に取り組んでいくことだと思います。例えば、ジェンダー平等でも、CO2の削減でも、バリアフリーでも、大会を通した取り組みだけでなく、社会におけるそれらの課題と目標を明確にし、戦略的に取り組むことが必要です。それぞれKPI(重要業績評価指標)を掲げることも不可欠です。
ただ、そこで注意しなければならないのは、いわゆる「数字合わせ」では意味がないということです。たとえばジェンダー平等においては、「理事の4割を女性にする」といった目標を掲げることは歓迎なのですが、そのために特定の分野における知識や経験がない女性を無理やり据えても、本当の意味のジェンダー平等につながりません。
―― 2030年冬季オリンピック・パラリンピックの札幌市への招致が実現するとパラリンピックが初めて札幌で開催されることにもなります。井本さんは、社会にどのようなインパクトがあると期待していますか。
井本氏:東京2020大会において、パラリンピックがもたらした変化は大きいと感じています。札幌招致によってさらに共生社会の実現が進むことを期待します。2030年まであと8年あります。小学生のお子さんが大学生になり社会人になるぐらいの時間です。
大切なのは、札幌市民の皆さん、そして日本の国民が、どのような社会を目指したいのかを明確にし、その実現に向けて何をすべきか主体的に考えていくことです。経済活性化だけでなく、ダイバーシティ、ジェンダー平等、環境保全、少子化など、さまざまな課題があると思います。それらの課題を整理し、明確な枠組みを提示し課題解決に向けて取り組むことが大事です。
特に若者や女性がリーダーシップをとり、日本の社会や、未来に対して提言し、生き生きと理念を掲げることが重要です。リーダーシップの多様化(ダイバーシティ)なくして、変革は生まれない。市民の皆さん一人一人が責任を持って未来を想像し、実現する一員として参加してほしいですね。
日本は少子高齢化や格差が拡大しているし、海外の国に比べて元気がないといった印象を持つ人が多いかもしれません。2030年冬季オリンピック・パラリンピックの札幌市への招致により、「いやいや、そんなことはない、日本もまだまだいけるぞ」と日本の存在感を示すきっかけになることを期待しています。
未曾有のコロナ禍で開催された昨年の東京2020大会。世界中のトップアスリートが繰り広げた熱き戦いは、多くの人々に生きる希望や勇気を与えた。だが、課題が残ったことも事実だ。大会ビジョンに掲げられた「多様性と調和」は社会に浸透したのか──。「テーマごとに明確な問題点と目標設定、KPI(重要業績評価指標)を定めなければ意識改革も進まない」。組織委員会でジェンダー平等推進に尽力してきた井本さんが語る、東京2020大会で浮彫になった課題は、言わば札幌大会を成功させるためのカギであると言えるのではないか。図らずも東京2020大会で露呈した難題への挑戦は、2030年の冬季オリンピック・パラリンピック招致を目指す札幌に託された。招致によって札幌市、そして日本全体が、どのような社会を目指したいのかを明確にし、一過性では終わらない意識変革が起こることを期待したい。
●問い合わせ先
日本オリンピック委員会(JOC)
〒160-0013東京都新宿区霞ヶ丘町4番2号
TEL:03-6910-5950
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札幌市スポーツ局招致推進部
〒060-0002 札幌市中央区北2条西1丁目1-7 ORE札幌ビル9階
TEL:011-211-3042
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