写真:花井智子

 「会社にお金がないんです」

 2011年、レラカムイ北海道は旧日本リーグから除名された。

 その後、自らが一般社団法人を設立、同時に新チーム・レバンガ北海道を創設して国内プロ団体球技では異例の選手兼代表となったのが折茂武彦だ。

 選手として29年、昨年(2020年)5月に引退するまで10000得点という前人未踏の記録を打ち立てた男であり、2億円を超える借金をしてまで北海道の地にバスケットボールクラブを残した男でもある。

 そんな折茂が記した話題の書『99%が後悔でも。』より、選手兼社長としての苦悩を綴った哲学を全4回で紹介する、第4回。(JBpress)

「勝者のメンタリティ」と誤算

 弱小チームを日本一、常勝軍団にした。そんな経験を持った上で、それでも難しかったのがレラカムイ北海道の時代だ。

 レラカムイに来て2年、最下位とそのひとつ上の7位と振るわない成績。

 選手層の薄さは、間違いなく大きな課題だったし、初めてチームメイトと会った瞬間からどこか自信のなさがうかがえた。

 「勝者のメンタリティ」が感じられなかった。

 わたしは、1シーズン目が終わったタイミングで、トヨタ自動車のときのようにまず「人」を集めようとした。

 具体的に言えば、「日本人ビッグマン」――つまり、背が大きくて、攻守においてパワーのあるプレーができる、パワーフォワードやセンターフォワードの選手の獲得だ。

 JBLは、このシーズンから、外国籍選手が常に2人コートに立てる「オン・ザ・コート2」から、常時1人の「オン・ザ・コート1」にルールを変えた。

 これにより、日本人ビッグマンの重要性が増していたというのも理由のひとつだった。

 パワーフォワードとセンターフォワードの2人を外国人選手に頼り切ってきたレラカムイにとって、このルール変更は大きな課題だった。

 多くの選手に声を掛けた。

 自腹になろうとも、北海道からどこでも行った。熱意を伝え、説得をし続けた。

 そうして、初期メンバーの13人のうちの約半数が入れ替わった。

 リーグで互角に戦う戦力になったはずだった。

 予想は大きく外れた。

 正直に言えば、経験したことがない状態。簡単に突破口が見当たらない。自分でも、どうすればいいかわからなかった。

 確かに戦力は整えたはずだ。

 この選手たちであれば、「勝者のメンタリティ」を獲得できる。チームの雰囲気だって決して悪くはない。試合が始まれば試合会場は満員である。そして8チーム中7位なのだ。

 問題はそれ以外にも起き始めていた。

 わたしの「2年契約」が終わり、新たな契約を結ぶ必要があった。北海道を出るつもりはなかった。

 「勝てないのにつめかけてくれるブースター」や「北海道」に、いままでにない愛着と恩返しの気持ちがある。返すまではやめられない。

 チームは低迷していたものの、わたしのスタッツは悪くなかった。このとき39歳。全35試合に出場し、プレータイムは平均34分。平均得点は13.7。ポジション別でもっともレギュラーシーズンに活躍した選手に贈られる「ベストファイブ」(優秀選手賞の位置づけだ)にも、5年ぶりに選ばれていた。 

 しかし、提示された年俸は、大幅なダウンだった。