アメリカ・スリーマイル島原発(TMI)の現地取材報告の5回目をお届けする。事故前の1974年から原発の監視活動を続けるハリスバーグの市民団体「スリーマイルアイランド・アラート(TMIA)」(スリーマイル島からの警告)代表のエリック・エプスタインさん(53)に話を聞いた。地元出身。大学で政治学を学び、大学教員として18年間歴史を教えていた。専門はマイノリティや障害者の歴史研究だ。名門ペンシルベニア州立大学で7年教え、退職してTMIAに専念している。

 興味深かったのは同じ原発をめぐる「市民運動」でも、形態がまったく日本と違うことだった。日本では国や福島県が運営している放射線モニタリングも「中立ではない」と自分たちでネットワークを始めた。その資金になっているのが、原発事故の訴訟で電力会社から得た和解金だという民事訴訟のあり方も興味深かった。

原発から20キロしか離れていなかった避難所

──1979年3月28日のメルトダウン事故が始まった日、どこで何をしていましたか。

エプスタイン氏(以下、敬称略) 「私はカルフォルニア州の大学の学生でした。実家はハリスバーグ市で家具商を営んでいました。すぐに家に戻ったところ、事故3日目から避難が始まり、父と姉も市外へ脱出しました」

── 3日間、住民の避難がなかったのですね。

エプスタイン 「そうです。3日目と言えばすでに水素爆発が起きていたころです。なのに、それまで学校は通常通り授業が行われていた。暖かい天気だったので、子供を含め多くの人が屋外にいました」

(注:TMI原発では数年後の格納容器内の調査で福島第一原発事故と同じ水素爆発 =hydrogen burn= が格納容器内で起きていたことが分かった。メルトダウンした燃料棒を覆うジルコニウムが酸素と反応して発生した水素、という点は福島第一原発と同じだが「爆発」というほどの規模にはならず「燃焼」したらしい)

──避難指示の内容を教えてください。

エプスタイン 「州政府はあくまで“precautionary evacuation”(念のための避難)だと言いました。就学年齢に達していない子供と妊婦は原発から半径5マイルのエリアから出るように。そんな内容だった」