先月末、福島県の飯舘村を訪れた。昨年5月以来2度目のことで、道路脇など日陰にはまだ解けきれない雪が残っている穏やかな日、村内を車で走った。
放射線の影響により昨年4月11日、国が「計画的避難区域」に指定したこの村では、ごく一部を除いて村民は家を離れて、福島市などの避難所で暮らしている。
約6000人いた人口がほとんどすべて村を去ってしまったわけだから、ただでさえ日中人影の少ないのどかな村で、人々が活動する気配を感じることはない。
見たところ家々や住まいの周りは、荒んだ様子はないし、地震による被害の痕跡はなく、ひっそりとした集落が点在しているところは、どこの田舎でも見られる光景だ。
しかし、日が暮れると荒涼感が募る。おそらくかつてなら灯っていただろう民家の明かりがほとんど見られないからかもしれない。
昨年5月に訪れたときは、避難が始まりかけたところだった。瑞々しい若葉をはじめ、緑豊かな田園をそのまま放置して行かざるを得ないという静寂のなかの残酷さに気づいたが、あれから半年以上たって改めて、原発事故の罪深さにため息が出た。
「放射線のリスク」と「生活をくつがえすリスク」を天秤にかける
震災後、飯舘村はそのほとんどの地域が福島第一原発から30キロ以上離れていたにもかかわらず、放射線の影響から村民は避難を余儀なくされた。
経過を振り返ると、「3.11」の翌日、津波の被害を受けた南相馬市の市民らが内陸の飯舘村に続々と避難してきた。同じ日第一原発1号機が水素爆発を起こし、14日には3号機が水素爆発を起こした。
15日は半径20~30キロ圏内の住民に屋内退避指示が出て、飯舘村の一部もこれに該当した。この時点では国は避難すべき基準を半径30キロにしていたので、村も避難の必要はないと考えていた。
しかし、住民の不安は高まり19日に希望者には自主的な避難の手立てを取った。そして4月11日に計画的避難地域に指定され全村避難が決まった。
放射能汚染が深刻だったにもかかわらず、震災当初は的確な情報が伝わらなかったことや、避難の時期や方法についての批判が村民やマスコミから国や村長にも向けられた。こうした批判に対して、菅野典雄村長は、避難の是非を考える際に、村民の生活を根底から崩すリスクも考えるべきだと主張した。