職員のうち私を含め六人は、高台にある旭ヶ丘団地に車(消防車両)を上げ、他の職員は国道を下って来た車を町中に行かせないよう誘導するものと通信勤務に分かれた。旭ヶ丘団地に車を停め、振り返えると市街地は川のようになっており、消防署は二階の窓の八分目まで浸水していた。想定外なんてものではない。何分間か、なす術もなく見守っていたが、あちこちから救助要請があり、流出家屋と瓦礫の上を救助に向かった。

 住民が流されてきた家屋の中にいる人を助けようと素手で屋根をはがしていたので、ノコギリ、バール、チェンソーを団地から集めてくるよう依頼し、高台からの津波監視も依頼した。一度水位の変化があり、流出家屋の中の要救助者に「必ず戻って来るから」と声をかけ、土手の上に退避したが、それ以上水位の変化は無く、約三〇分後に夫婦を救出した。直ぐに「もう一人いるから手伝ってくれ」と声がしたので救助にあたった。まだ、現場を見れば見るほど要救助者がいてもおかしくない状況だった。

 この時ふと、「9.11」のときの「サイレント・タイム」を思い出した。あの時、ビルの倒壊現場では重機を止めて静寂(サイレント・タイム)をつくり、生存者がいるかどうかを確認した。とにかく一度静かにして家屋の下からの声を拾おうと思った。

 「誰かいないかー」。するとまた声がするのが聞こえた。流されてきた家の中に女性が二人いた。一人はかなり高齢のおばあさんだ。近くの工場からはしごを借りてきて山肌伝いに下ろして、ふとんを屋根の上に敷いた。そこにおばあさんに座ってもらい、なんとか救助することができた。結局、日没までに一〇人を救助することになった。

家並みがすっかりなくなった南三陸町の沿岸(2011年11月撮影)

 以上は、南三陸消防署(宮城県)の消防隊員、遠藤貴史さん(35)の手記からの引用である。志津川湾を溢れさせた津波は、消防署をも襲い、署員のなかからも犠牲者が出た。

 このとき、消防車両を高台に避難させていたため難を逃れた遠藤さんは、この手記にあるように呆然と仲間のいる庁舎を見下ろすしかなかった。その直後から周辺で救出活動に入った。

 災害時には今回のように現場が騒然となり、助けを求める人の声は往々にして小さく、届かないときがある。また、最も弱っている人や場所は声や情報を発することすらできない。「9.11」の現場の様子からそれを思い出した遠藤さんはその声を聴こうと一瞬音を無くして耳を澄ませた。消防隊員という救出・救助のプロの仕事をここから見ることができる。

 「3.11」の当日、非番だった遠藤さんが、長女を小学校へ迎えに行っているときに地震が発生した。タイミングよく下校時の長女を確保して、妻の実家に預けていち早く署へ向かった。

 自衛隊、警察、消防隊など公的な救助、救援にかかわる仕事に就く人たちが、震災後一斉に活動した。どれもみな危険と背中合わせの仕事だが、消防隊員が特殊なのは、自分たちの誰もが、現地で暮らす被災者でありながらその任務を第一として職務に就かなくてはならない点である。