まちを歩いていて、あるいは車を運転していて道に迷うことがあるだろう。車なら昨今はカーナビがあるからたいてい目的地へ到達することができるが、目指す場所が新しい建物だったり、電話番号がかわっていたりすると出てこないことがある。
それでも人によっては、とにかく施設名、電話、住所、あるいは画面の拡大をするなど、なんとかしてカーナビを頼ろうとする。ちょっと車をとめて誰かに聞けば分かるだろうに、そうしない。歩いていても携帯電話やスマートフォンで必死に調べようとする。目の前には商店があったり、地元の人が通り過ぎてもである。
これはおそらく情報端末の急速な進化とともに日本全国で広がっている現象だろう。自分の力だけで解決しようとする。昨今、たいていのことはこれで済むからついつい頼りたくなるが、時には路上で人に聞いた方が早いことがある。
情報機器がコミュニケーション能力を劣化させる
なんでも物事は良い面と悪い面があるが、情報伝達道具の進化は人間同士のコミュニケーション能力を劣化させるおそれもある。
だいたい便利なものは使い始めればきりがない。本来目的達成のための方法がより便利になっていくと、便利な方法をできるだけ使いこなすこと自体が目的となってくる。「策士策に溺れる」というか、策ばかり弄すると、本来の目的を見失うということだ。
かくいう私も仕事で旅行に出るとき、交通手段から宿泊先など、できるだけ事前に目的にかなって効率よく手配しようとして、かなりの時間ネット情報と格闘することになる。「どちらが早いか安いか」から始まって、どこで土産物を買ったらいいかなど、得ようと思えば次々と情報が手に入る。
が、果たしてこれに費やされたエネルギーと時間はどれだけだったかと思うと、適当なところでやめにして、あとは現地の人に聞くとか、その場で判断するという方法を取ってもよかったのでは、と思わないでもない。
便利さと効率を追っている間に失われたものがあること、また、そもそもその情報は、膨大とはいえ、登録された限られたもののなかからの組み合わせである。
例えば、居酒屋やレストランに行くとき、どこにしようかと事前調査をすると、ウェブからかなりの情報は得られるが、それでも所詮文字と写真である。また、宣伝してほしいようなところが優先的に上がってくることもあるし、おもしろみはない。
というようなことを考えていて、今年になって友人と、“ぶらり居酒屋の旅”を始めた。旧知の仲である米国事情に詳しいジャーナリストのH氏とふたりで、月に1度どこか適当に都内の酒場を選んで、いきあたりばったりで店に入ってみることにしたのだ。