1984年に「ユニクロ」を立ち上げ、ファーストリテイリングを世界的な企業に育てた柳井正氏。一方、初代シビックはじめ数々のホンダ車をデザインし、本田技研工業の常務を務めた岩倉信弥氏。二人はビジネスにおけるデザインの重要性を追求した点で共通している。本連載では『一生学べる仕事力大全』(致知出版社)に掲載された対談「ドラッカーと本田宗一郎~二人の巨人に学ぶもの~」から内容の一部を抜粋・再編集し、組織と経営の本質に迫る両氏の対話を紹介する。
第1回は、岩倉氏が見た、社員の本気を引き出す本田宗一郎の「叱り方」を取り上げる。
<連載ラインアップ>
■第1回 「世界」を常に意識した本田宗一郎が、部下に繰り返し投げかけた質問とは?(本稿)
■第2回 ユニクロ柳井正氏は、なぜドラッカーを読んでもピンと来なかったのか?
■第3回 「企業は誰のものか」の答えとは? 会社の本質を見抜いたドラッカーの名言
■第4回 がむしゃらに働くと、なぜ仕事は面白くなるのか?
■第5回 ユニクロ柳井正氏が捉えた、本田宗一郎とドラッカーの共通点とは? (10月18日公開)
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経営とデザインの関係性
岩倉 柳井さん、お久しぶりです。
柳井 こちらこそ。それにしても岩倉さんとは不思議なご縁ですね。
5年ほど前、うちの会社がコンサルティングを受けている河合太介さんから、「こういう人がいるから会ってみませんか」とお誘いいただいたんですが、聞けば、岩倉さんは本田宗一郎*さんとずっと一緒に仕事をされてきた方で、ホンダ車のデザインの歴史はこの人抜きには語れない、と。
僕は本田さんとは直接お会いしたことはないのですが、自分にとってはアイドルみたいな存在ですし(笑)、ホンダの経営などに関してもすごく興味があったので「ぜひお会いしたい」とお願いしました。
たぶん我々がいま衣料の業界でやろうとしていることは、戦後、本田さんが世界中に出ていって会社をつくっていかれたのと同じようなものじゃないかと思うんです。
岩倉 まさにそんな感じですね。
柳井 岩倉さんにはその後、当社の役員や商品開発のスタッフら約200名の前で講演もしていただきましたね。非常に参考になるお話で、僕は「きょうの勉強会は数百億円の価値がある」とコメントした記憶があります(笑)。
岩倉 いやいや、恐縮です。
柳井 経営とデザイン、マネジメントとクリエイティブ、論理と感性といった2つのもののバランスが、経営には非常に大事です。でもその2つを岩倉さんのように理解している方は、経営者でもあまりいないし、デザインをする人ならほぼ皆無ですよね。それらは相反するもののようですが、どちらも不可欠なものだと思うんです。
岩倉 柳井さんが尊敬されているドラッカーも、「科学と芸術が一体になっていなければ経営はできない」と述べていますよね。
柳井 えぇ、そうですよね。
岩倉 本田さんは車のデザインを見て「おぉ、これは性能がいいだろう」という言い方をよくされました。パッと見たら、あ、これはいい考え方でできたものなんだということが分かると。そういうことを大衆やユーザーは看破するんだとおっしゃっていました。
ですから「見た目」がいかに大事かということですよね。僕はデザイナーで、性能の部分をつくっているわけじゃないですから、おかしなことを言うなぁと当時は思っていたんですが(笑)、もう姿形に表れているという意味でしょう。
柳井 それは衣料の業界でもやはり同じで、どこからが内面で、どこからが外面ということはあまり分からないですよね。デザインにはその人間が持っている想いとか、いろんなことが総合されて表れてくるのであって、突然デザインが出てくることはないと思います。
本田さんはご自分で車をつくられていたので、そういうことを体得されていたんじゃないかな。
岩倉 ご本人はデザインの学校を出たわけでも、当時は絵を描いておられたわけでもない。ですから、考え方がそのまま形になっていくということなんでしょう。僕のものづくり人生も「形は心」という一言に集約されるように思います。
*本田宗一郎(ほんだ・そういちろう)〔1906~1991〕:静岡県生まれ。大正11年高等小学校を卒業し、東京・湯島の自動車修理工場東京アート商会に徒弟奉公して、自動車の修理技術を身につける。昭和21年静岡県浜松市に本田技術研究所を創設。23年同社を本田技研工業と改め、オートバイのエンジンと車体の一貫生産を開始、30年国内生産1位となる。38年軽トラックと小型スポーツカーを発表、48年低公害エンジン「CVCC」搭載の「シビック」を発売、大当たりして会社の基盤固めに成功する。34年から同社オートバイによる国際レースに参加、39年からは自動車レースの最高峰フォーミュラ1(F1)にも参加。48年に最高顧問。