アート思考やデザイン思考の人材を求める企業が増えている。一方で、これに応えることのできる教育機関は少ない。武蔵野美術大学 造形構想学部の「クリエイティブイノベーション学科」はその名のとおり、新しい価値観を社会に浸透させることができる人材の育成を目指す。デザイナーやアーティストの輩出をゴールにしていないのが大きな特色だ。

新学部を開設、都心に新キャンパス

 東京都新宿区。JRや東京メトロの市ケ谷駅にほど近い8階建てのビルに、「MAU」という武蔵野美術大学のロゴが掲げられている。同大学の市ヶ谷キャンパスだ。「こんなところに武蔵野美術大学のキャンパスがあったのか」と驚く人もいるだろう。それも無理はない。同キャンパスは2019年4月に「造形構想学部」が開設されたのにあわせて構えられたばかりなのだ。

武蔵野美術大学 造形構想学部
クリエイティブイノベーション学科 主任教授
長谷川 敦士 氏

 武蔵野美術大学 造形構想学部 クリエイティブイノベーション学科 主任教授の長谷川敦士氏は「都心の立地を生かし、企業と連携した教育を実践できるのが大きな特色」と語る。

「ムサビ」の愛称で知られる武蔵野美術大学は、1929年の開学以来、優れた人材を数多く輩出してきた。アーティストだけでなく、産業界で活躍する人材も多い。90周年にあたる2019年に、ムサビは大きな改革を行った。これまで造形学部1学部に11の学科という構成だったが、造形構想学部を増設し、クリエイティブイノベーション学科を新設、映像学科を造形学部から移設したのだ。

 長谷川氏はクリエイティブイノベーション学科の立ち上げにも携わった。改革をリードしたのは、当時の理事長だった天坊昭彦氏だ。天坊氏は出光興産の社長を務め、上場を果たしたことでも知られる。「創造的思考力と批判的思考力(クリティカルシンキング力)を備えたムサビの卒業生は、一般企業に入っても活躍できるはず、というのが天坊前理事長の考えでした」と、長谷川氏は振り返る。

 その考え方は、クリエイティブイノベーション学科の入試やカリキュラムにも示されている。注目すべきは、同学科においては、選抜にあたってデッサンなどの実技試験がないことだ。一般選抜では学力試験のみで合否が判定され、文系でも理系でも、得意な科目に応じて自由に選択できる。

「美大を受験するためには、予備校に通うなど専門的な準備が必要とされていましたが、本学科ではそれが不要です。一般の大学を目指していた受験生で、志望を変更し本学科に入学した人も少なくありません」と長谷川氏が説明するように、これまで美大受験を考えていなかった受験生にも関心をもってもらえるに違いない。

 特色ある選抜方式で、クリエイティブイノベーション学科はどのような人材を育成しようとしているのか。「一口で言えば、アート思考やデザイン思考で、ビジネスや社会にイノベーションを起こせる人材です。課題を発見し、その解決に向けた方法を考え実行できる力を磨きます」。民間企業におけるビジネスの現場はもちろんのこと、地域の活性化を目指す行政などでも必要とされる人材だろう。

鷹の台キャンパスと市ヶ谷キャンパスの機能を生かす

 社会課題に向き合い、解決できる人材を育成するために、クリエイティブイノベーション学科ではどのような教育を行っているのか。

「基礎課程(1・2年次)と専門課程(3・4年次)に分け『創造的思考力』を基礎から応用まで段階的に磨いていきます」と長谷川氏は話す。基礎課程では、美術大学ならではの本格的な造形教育も体験できる。拠点となるのは小平市にある武蔵野美術大学の鷹の台キャンパスだ。1・2年次はこの広大なキャンパスで造形・教養教育と現代社会・産業知識という2つの軸で「創造的思考力」を養う。造形実習ではクリエイティブイノベーション学科専用のアトリエや工房を使い、絵画・彫刻・映像などの基礎を学ぶ。そして、作品を批評する「講評」を繰り返し、思考を整理する力やプレゼンテーション力、コミュニケーション力を高めていく。

鷹の台キャンパスでの実習風景

 3・4年次の専門課程では市ヶ谷キャンパスで、社会との接点を重視した、「創造的思考力」を実社会で応用するための実践的な学びを身に付ける。「企業と連携した課題解決型プロジェクト学習(プロジェクト・ベースド・ラーニング、PBL)を必修科目にしているのも大きな特長です」企業や実社会が直面している問題の課題解決について、実務家や専門家と一緒になって取り組むことは貴重な経験になるだろう。このほか、自分が関心のあるテーマで研究したり、作品を制作したりし、発表を行うフィールドリサーチ型の学習にも力を入れている。

地域を題材とした課題探索・課題解決プロジェクト学習の様子

AIやデータサイエンスの領域でも知識と経験が広がる教育を実施

「新しい価値を生み出し、社会に浸透させていくには、テクノロジーは不可欠です」と長谷川氏は指摘する。そのために、クリエイティブイノベーション学科でも入念なカリキュラムが組まれている。

カリキュラム構成モデル

 例えば、長谷川氏が担当する講義には「クリエイティブテクノロジー概論」「クリエイティブテクノロジー演習」などがある。「テクノロジー自体の深い理解というよりは、テクノロジーがもたらした価値観、テクノロジーによって生まれた、新しい行動様式、現象を理解するための講義です」と長谷川氏は紹介する。概論といっても、AI(人工知能)や機械学習の原理、さらにはインターネットそもそもの仕組み、オープンソースムーブメント、ブロックチェーン、さらにはデジタル化が進む中での組織作り、企業のあり方など、テーマは幅広く、奥が深い。

AIについてのカリキュラムのひとコマ

「クリエイティブテクノロジー演習」は選択科目だが、ビジュアルデザインのためのプログラミング言語「Processing(プロセシング)」や「OpenCV(オープンソースのコンピュータビジョン向けライブラリ)」、センサーやデバイスなどを制御するワンボードマイコン「Arduino(アルディーノ)」などを活用しプロトタイプ(試作品)を実際に制作する。「課題を発見し、分析するためにデータサイエンスを活用することもあります。意欲ある学生はR言語やPython(いずれもデータ解析で用いられるプログラミング言語)などを活用し、研究を行っています」。

 その一方で長谷川氏はクリエイティブイノベーション学科では、テクノロジーの専門家を育てる考えはないと話す。「餅は餅屋ではないですが、エンジニアリングの部分は専門家に任せればいい。クリエイティブイノベーション学科では、そのテクノロジーをどう使うかという発想力や想像力を高めていきます」。ユーザーとしてAIを活用する場合でも、その仕組みがわかって使うのとブラックボックスのまま使うのとでは大きな差があるだろう。

 2023年3月にはいよいよ、クリエイティブイノベーション学科の第1期生が卒業を迎える。進路としてはどのような方向が考えられるのか。

「本学科の卒業生は、一人のデザイナーとしてではなく、ユーザー視点で新規事業を立ち上げることができる人材になると自負しています。企業の新商品・新サービスの開発、地域プロジェクトのプロデューサーなどで活躍できると考えています」

 長谷川氏の話を聞くと、武蔵野美術大学のクリエイティブイノベーション学科は美大でありながら、アートやデザインの専門学科ではないことがわかる。しかし、90年にわたって培ってきたムサビのコンテンツを生かし、確実に社会の要請に応えようとしている。武蔵野美術大学の取り組みが好例となり、今後、美大出身の事業責任者や経営者が増えても不思議ではない。


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