日本人の多くは、今回の尖閣事件について中国政府がなぜこんなにも強引に対応してきたのか、理解できないでいるかもしれない。

 そもそも領土と領海の問題は、簡単に相手国と妥協できるものではない。近年、中国はロシアやベトナムとの領土問題を「2分の1方式」で解決した。つまり、争議のある領土について基本的に双方が2分の1ずつ分け合う方式で決着した。だが、日中両国は尖閣諸島の領有権を双方が主張し、一歩も譲らない構えである。

 かつて中国は海軍の力が弱かったので、周辺海域の権益をそれほど強く主張していなかった。近年は中国経済の発展に伴って、軍事力、とりわけ海軍の戦力増強が際立っている。その結果、周辺海域の権益を強く主張するようになったと、日本や米国の専門家は見ている。

 いかなる国でも、国力が強化されるにつれて権益を強く主張するようになるのは、当たり前のことと言える。それを力で押さえ込もうとしても、おそらく無理があるだろう。

 そこで、衝突を回避するためには、2国間ないし多国間のメカニズムを用意しておく必要がある。

中国は30年前まで「鎖国」を続けていた

 中国ではつい30年前まで、完全に鎖国政策が続いていた。当時の中国を振り返れば、外国からの情報は完全に遮断され、人的な往来も全面的に禁止されていた。

 毛沢東(1893~1976)の共産党はなぜ鎖国政策を続けたのだろうか。大きな理由は2つある。

 まず、中国は戦後の冷戦構造の中で旧ソ連と同じ陣営に属し、西側諸国と対立していた。だが、30年前の中国は経済力も軍事力もほぼ白紙の状況にあり、西側諸国に体当たりすることはできない。その上、旧ソ連とは同盟国だったが、必ずしも100パーセント信用していたわけではない。いわば、同床異夢の関係だった。その結果、毛沢東は鎖国というオプションを選んだのである。

 もう1つは、中国国内の事情である。共産党は「社会主義のユートピア」という目標を掲げて国民を引き付け、求心力を強化しようとした。しかし、社会主義中国は行政組織と制度の構築を自己完結的に行えなかった。

 1949年の建国当初、共産党は、非共産党の政治勢力も容認する「連合政府」の設立を約束した。だが、この約束はたちまち破られ、非共産党の政治勢力は実質的に共産党組織に改造された。そして毛沢東は、政権を固めるために、知識人を排除する反右派闘争や文化大革命などの虐待キャンペーンを繰り広げる。