写真:Japan Innovation Review編集部

「一番搾り」「淡麗」「氷結」など、今やキリンを代表する数々の商品を手がけ、「稀代なるヒットメーカー」と称されたマーケター・前田仁(ひとし)。ビール業界において、なぜ前田だけが次々とヒットを生み出すことができたのか。本連載では『キリンを作った男――マーケティングの天才・前田仁の生涯――』(永井隆著/新潮文庫)から、内容の一部を抜粋・再編集。決して順風満帆とは言えなかった前田のキャリアを軸に、巨大飲料メーカー・キリンの歴史をひもといていく。

 第1回は、キリンの強さの源泉「ラガー」の破壊を企てたビール商品「ハートランド」が誕生した経緯や、その背景にあった前田の狙いを探る。

<連載ラインアップ>
■第1回 “聖域”の ラガーをたたき潰す、キリンにラベルのないビールが誕生した理由とは(本稿)
第2回 キリンの天才マーケター・前田仁にとって不可欠だった「アイデアの源泉」とは?
第3回 ぜいたくなビールを「スーパードライ」「ラガー」と同じ価格で、天才マーケター・前田流のこだわりとは
第4回 「麦汁の一滴は血の一滴」工場の猛反発にもかかわらず、なぜ「一番搾り」は商品化されたのか?
第5回 「ラガーの生ビール化」で失敗の黒歴史、当時のキリンを覆っていたある組織体質とは?
第6回 窮地のキリンを救った大ヒット発泡酒「淡麗」で、天才・前田が仕掛けたマーケティング戦略とは?

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ラベルのないビール

 いままさに、バブルの時代が幕を開けようとしていた1986年。その一風変わったビールは生まれた。ビールの名は「ハートランド」。目に鮮やかな緑色のボトルが印象的な、麦芽100%の瓶ビール(500㎖)だ。

 大きなスーパーなら、クラフトビールのコーナーに置かれているが、コンビニではあまり見かけない。どちらかといえばマイナーなビールだ。キリンビールの製品ということさえ、意外と知られていないようだ。

 そのボトルにはラベルがない。ガラスにエンボス(浮き彫り)が施されているだけ。「KIRIN(キリン)」のロゴすら入っていない。このボトルのデザインは、レイ吉村が手掛けたもの。ニューヨークの沖合に沈む沈没船から発見された、古い瓶の形をイメージしたという。エンボス部分に描かれた大樹のイラストは、画家ラジャー・ネルソンが描く、アメリカ・イリノイ州の穀倉地帯の風景がもとになっている。

「ハートランド」は、当時テレビ朝日系で放送されていた「愛川欽也の探検レストラン」という料理バラエティ番組向けに作られたビールだった。ちなみに、同番組のスポンサーはキリン1社だった。

 番組向けのビールではあったが、テレビ朝日の旧局舎内のレストラン「たべたか楼」で、実際に飲むことができた。「ハートランド」はその後、キリン直営店でも提供されることになる。

 その直営店こそ「ビアホール・ハートランド」である。86年10月に、現在六本木ヒルズがある、当時は「再開発予定地」だった場所にオープンしたお店だ。「ハートランド」はそもそも、この「ビアホール・ハートランド」のために開発されたビールだった。テレビ番組での使用はPRのための施策にほかならない。この「ビアホール・ハートランド」も、普通のビアホールではなかった。

 建物自体がかなり個性的だった。かつてニッカウヰスキーの原酒貯蔵庫跡で、通称「穴ぐら」と呼ばれた建物と、日本における弁護士の草分けである増島六一郎の元邸宅で、大正初期にドイツ人が設計した、蔦(つた)の絡(から)まる4階建ての洋館「つた館」からなっていた。

 86年8月から改装工事を始め、10月20日にバースタイルの「穴ぐら」がオープン。「つた館」を加えてフルオープンしたのは11月7日だった。客席数は「穴ぐら」が54席、「つた館」が142席、合計196席という大箱だった。

「ハートランド」の商品開発を仕切ったのは、当時キリンのマーケティング部に在籍していた前田仁だった。前田は「ビアホール・ハートランド」の初代店長も務めている。

 マーケティング部の前田が、なぜ直営店の店長を務めたのか。それは「ビアホール・ハートランド」の狙(ねら)いが、消費者のニーズを探ることにあったからだった。お店で得た知見をもとに、前田はその後、大ヒット商品を次々に開発、「マーケティングの天才」と呼ばれることになる。