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「一番搾り」「淡麗」「氷結」など、今やキリンを代表する数々の商品を手がけ、「稀代なるヒットメーカー」と称されたマーケター・前田仁(ひとし)。ビール業界において、なぜ前田だけが次々とヒットを生み出すことができたのか。本連載では『キリンを作った男――マーケティングの天才・前田仁の生涯』(永井隆著/新潮文庫)から、内容の一部を抜粋・再編集。決して順風満帆とは言えなかった前田のキャリアを軸に、巨大飲料メーカー・キリンの歴史をひもといていく。

 第2回は、新商品開発チームのリーダー・前田を中心とした「一番搾り」プロジェクトのスタートにスポットを当てる。

<連載ラインアップ>
第1回 “聖域”の ラガーをたたき潰す、キリンにラベルのないビールが誕生した理由とは
■第2回 キリンの天才マーケター・前田仁にとって不可欠だった「アイデアの源泉」とは?(本稿)
■第3回 ぜいたくなビールを「スーパードライ」「ラガー」と同じ価格で、天才マーケター・前田流のこだわりとは(9月18日公開)
■第4回 「麦汁の一滴は血の一滴」工場の猛反発にもかかわらず、なぜ「一番搾り」は商品化されたのか?(9月25日公開)
■第5回 「ラガーの生ビール化」で失敗の黒歴史、当時のキリンを覆っていたある組織体質とは?(10月2日公開)
■第6回 窮地のキリンを救った大ヒット発泡酒「淡麗」で、天才・前田が仕掛けたマーケティング戦略とは?(10月9日公開)

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一言多いリーダー

 キリン「一番搾り」の開発が始まったのは、1989年1月である。担当したのは、新商品開発を専門とするマーケティング部の第6チーム。そのリーダーに当時39歳だった前田仁が就いた。

「スーパードライ」の勢いを何としても止めなければならない。そのための新商品として、「一番搾り」の開発がスタートする。前田はまず、社内の優秀な人材を、部門の垣根を越えて集めることから仕事を始めた。

 79年に入社し技術部門からマーケティング部に異動していた小川豊、入社5年目で名古屋工場醸造課に直近まで勤務していた舟渡(ふなと)知彦(84年入社)、入社4年目の女性マーケター福山紫乃(しの)、舟渡より1期先輩で、川崎北部エリアの営業からマーケティング部に異動したばかりの代野照幸(だいの てるゆき)など、その後キリンの中核を担(にな)う人材を集結させている。

 望月寿城(しりあがり寿)も「ハートランド」に続いて参加していた。

「一番搾り」の広告は電通が担当したが、その電通側の人選すら、前田が行ったという。プロジェクトに参画した電通は、すぐ次のような提言を行った。

「アサヒはスーパードライという核弾頭で戦っている。一方、キリンには小さな武器しかない。キリンにも核弾頭が必要だ」

「核弾頭」とはいかにも大げさだが、こうした単語のチョイスが当時のビール商戦の激しさを物語っている。ちなみに「スーパードライ」でアサヒが使ったのは博報堂である。こうしたところにもキリンとアサヒのライバル意識が垣間見(かいまみ)える。

「舟渡、出かけるぞ」前田はよくそう言って、オフィスを抜け出していたという。

 前田の行く先は、著名な建築デザイナーや、有名広告クリエイター、リサーチ会社の幹部などの事務所が多かった。

 時には画家や演劇関係者など文化人のもとを訪ねることもあった。前田はそこでただ雑談を交わしていたという。話題はとりとめのないものばかりで、肝心のビールの話も、相手から求められない限りはしなかったという。その雑談のために、ホテルの喫茶室や青山の洒落(しゃれ)たコーヒーショップをしばしば利用していた。

「オフィスにこもっていても、いいアイデアは出ない。それよりも、いろんな情報を集めることが大切だ。情報は待っていてもやってこない。こちらから出かけて集めるんだ。プロデュース力と発信力のある人には、良質な情報が集まっている。そういう人を探して会いに行くようにしろ」

 移動のタクシーや地下鉄の中で、前田は一回り若い舟渡にそうアドバイスしていたという。